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読切小説「ウミウシの浜」

前線が記録的な積雪をもたらした後の冬のある日、東京から実家に弟が帰って来た。

何の連絡もよこさず、唐突に行動するあたりは相変わらず弟らしい。
弟は、音楽で身を立てようと試みて東京に住んでいたが、その家主である彼女とひどいケンカをして家を追い出され、行く当てもないまま実家に帰ってきたのだと言う。

いつも後先を考えず、思いつくままに行動して痛い目を見ているのに、まったく成長していない。音楽で身を立てると言い出した時も、東京に行くと言い出した時も、今は亡き両親と共に強硬に反対したものだが、能天気とも言える楽天家の弟に、そんな言葉は聞こえなかったようだ。

その両親も既になく、俺は独り身で実家に住んでいるわけだから、弟の帰省に何の問題があるわけでもないのだが、「今季最強寒波」の影響でほとんど身動きが取れなかった上に、備蓄していた食料も予定外の来客であっという間に食べ尽くしてしまい、冬の嵐が去った後には、空腹を抱えた大の男が二人、特にやることもないままに、昔はよく一緒に遊んだテレビゲームで時間を潰すしかなかった。

「なあ、なんか買い出しに出ようぜ? 雪も止んだし。」
「この辺まで除雪が入るのは明日の朝だよ。それまでは身動き取りようがないだろ。」
「兄ちゃんの車なら大丈夫だろ。日本より雪の多い国の車だろ?」
「無茶言うなよ。いくら四駆だからってラッセルできるわけじゃねーよ。」

俺の車はスウェーデンのボルボだった。四駆とは言え、今から30年近く前に作られたオンボロだった。発売された当時は「走るレンガ」と呼ばれた先代を踏襲した頑丈で人気のあった車だが、省エネが叫ばれて久しいこの御時勢には最悪の燃費で、最近は出番がない。

「だってもう食うものないんだぜ? 明日まで持たねーよ。町の方がダメなら、海の方に行ってみようぜ。どっかのドライブインとか開いてるかも知れないし、コンビニとかできてるかも。」

時計はまもなく午後6時になるところだった。クネクネした細い山道を越えて行かなければならない町場に向かうよりは、確かに海に向かう方が近いし道も険しくない。メインの県道から様々な浜に降りていくための支道も巡っていけば、トラック向けのドライブインや観光客相手の食堂が何件か思い当たるのも事実だ。さすがにコンビニができていることはないだろう。

この半島は、「忘れ去られた土地」だ。
元々大きな産業があるわけでもなく、「名所」と呼べるような観光地もない。夏になれば車好きな若者たちで賑わう峠道はあったが、真冬の今はそうした若者たちも訪れることはない。

震災以降、過疎化に一層の拍車が掛かり、俺の住んでいる町も人口は減っていく一方だった。中には、集落全体が内陸に移転してしまい、打ち捨てられたままの浜まである始末だ。

「コンビニなんかできるわけねーだろ。せいぜい『昆布煮』が見つかれば御の字だ。」

少しだけ見えた食べ物への希望に、つまらないダジャレまで飛び出して、二人でひとしきり茶化し合いながら外へ出た。弟が乗って来たレンタカーには、分厚く雪が積もっていたが、ガレージに入れてある俺のボルボはフロントに吹き溜まりこそできていたが、雪は乗っていない。地面の雪は10cm程度だ。

「おお、これくらいなら何とかなりそうだな。道路に出ちまえばトラックも走ってるだろうし。」
「なんでレンタカーだけあんなに積もってんだ?」
「二日もそのままだからだろ。地面の分は地熱で少し溶けたんだよ。」
「そっか。」

思えば、この時に何かに気が付くべきだったのかも知れなかったが、空腹とまともな食事にありつけるかも知れないと言う思いが、思考を鈍らせていた。もしかしたら、それ以外もあったのかも知れないが・・・。

「さて・・・問題は、バッテリーが生きてるかどうか・・・。」

ボルボのエンジンを掛けるのは久しぶりだ。前回掛けたのは仙台に行く用事があったときだから、実に一ヶ月半ほどはエンジンに火を入れていない。

掛からなければ、日常の脚として使っている軽トラにつないでジャンプスタートするしかないが、雪が止んだとは言えこの寒さの中でその作業をするのはかなり億劫だ。

キーを差し、ACCまで回してみる。インパネに光が灯った。助手席の弟と不安げな視線を交わしてから、もう一段、キーを捻る。ドルルンと言う重い響きと共に、一発でエンジンが始動した。

「おー! さすがボルボ!」
「全然大丈夫だったな! さすがにヤバいかと思ったけどな!」

アイドリングが落ち着くまでの間、暖機運転をした。その間にフロントの吹き溜まりを除雪する。助手席で暢気にタバコを吸っている暇があれば手伝えばいいものを、次男坊気質と言うのか、そういうところが彼女に追い出される原因なんだとは思うが、言ったところで暖簾に腕押し、ぬか床に釘。これから車内でしばらく二人きりになることを考えれば、余計な話はしないに尽きる。

敷地内道路から県道に出てみると、思っていたよりもかなり雪が少ない。何台かはトラックも通った轍ができていて、ほとんど問題なく走行できた。

「なんだ、思ってたより雪、ないじゃん。」
「だな。海側だから少なかったんじゃないか?」

こうして走り始めて10分ほどで、県道沿いの食堂に着いたが、営業はしていなかった。

「もう6時も回ってるし、普通なら開いてる時間だよなぁ?」
「そもそも人がいる気配がないだろ。定休日かなんかにぶつかったんだろ。」

弟がスマホを取り出してナビアプリを開く。住んでいるとは言え、養殖業を離れてから海側にくることが滅多になくなっていただけに、記憶にない飲食店ができている可能性は多分にあった。

記憶と情報を頼りに、それから数件の食堂やレストラン、いわゆる観光客向けに「地元飯」を食べさせる高級志向の店まで回ってみたが、どこも電気がついていない。

結局、車で2時間近く、3つの浜まで回ってみたが食事にありつくことはできなかった。この先は海を見下ろす展望台しかなく、そこから県道は半島を回り込むようにして町場へ向かうのだが、つづら折りの細い道路の連続でトラックも通らない上、山の陰になって携帯の電波が入らない。今から向かうのは無謀だった。どこかでスタックでもしたら、それこそ命に関わる可能性さえある。燃料のゲージは半分より少し下を指していた。

「ダメだ。諦めて帰ろうぜ。」
「マジかよ! ここまで来て!」
「無理だろ! 道路見てみろよ。車が通ったような跡すらないだろ? お前もこの先どうなってるか知ってるだろ?」

弟はこの先の道路でバイク事故を起こしたことがある。半日近く助けが来なくて、それこそ死にそうな目に遭った。最終的に折れた脚で展望台まで歩いて来て、観光客に助けられたのだ。

「ま、まあな。なあなあ、それじゃさ、最後に弓浜に行ってみようぜ?」
「弓浜? 馬鹿言うな。あそこに食堂なんかあるわけないだろ。地元の人間すら近寄らないってのに。」
「だからさ、ほら、『隠れた名店』みたいなの、できてるかも知れないじゃんか!」
「そんな話は聞いたことないけどな。スマホに何か出てたのか?」
「いや・・・そういうわけじゃないけど・・・。」
「だったら行くだけ無駄だろ。」
「いいじゃんか! このまま帰ってもどうせ町場には向かわないんだろ? だったら最後のチャンス! な? な?」

こうなったら、弟は絶対に譲らない。この頑固さは母親譲りだ。
「一生のお願い」「最後のお願い」と来て、それでもダメなら「一人で歩いていく」と言い出して相手を困らせる。

「そこまで言うなら行ってみるか? ダメなら帰ってもう寝るぞ?」
「OKOK! それでいい!」

展望台の駐車場でボルボを転回させて、元来た道を引き返す。弓浜への支道は通り過ぎて来ていた。そこは、震災で移転した十数軒の集落を越えたら、小さな漁港跡しかない。

そしてその漁港跡へは車も入れないような細い坂を歩いて下りていくしかないのだ。

大昔は大きな魚の獲れるいい漁港だったらしいが、ある時からウミウシが大量に発生し、そこからピタッと魚が獲れなくなり、「ウミウシの浜」と呼ばれて地元の漁師からも避けられていた。

当然のように、お互い訪問先の候補からは外してここまで来たわけだが、どうせ帰り道だし、このまま帰るよりはほんの僅かな可能性に賭けてみるのも悪くないと思い始めていた。ダメ元でも、0よりはマシ、というわけだ。

しかしその考えも、やはり甘かったとすぐに痛感させられた。
支道に入って間もなく、両脇の藪が伸び放題に伸び、ガードレールを隠すように道路までせり出して来ているのがわかった。雪の重みも手伝っているのだろうが、しばらくは完全に人の手が入っていないのは明らかだ。

「やっぱ無理だろ、これ。どう考えても年レベルで誰も来てないぜ?」
「だな・・・。こりゃ隠れた名店どころじゃないわ。隠れ過ぎだ。」

新雪にタイヤの跡を刻みながら支道を下っていく。この細い道路では転回もままならないから、降り切ったところにある少し開けた場所まで進むしかない。

「お、おい! あれ、灯りじゃないか!?」

助手席の弟がそう叫びながら身を乗り出した。
支道を下り切った場所から浜の方向に、確かに灯りが見える。ぼうっとした鈍い光り方ではあったが、それなりに大きい建物のようだ。

車を止め、降りて確認してみると、細い下りの坂道の先に、自分の記憶にはない浜小屋のような建物があった。よく見ると、建物の周囲に幟のようなものもはためいている。暗くて書いてある文字までは読めなかったが、確かに飲食店らしい雰囲気が感じられた。

「きたきた! 牡蠣小屋かなんか、できたんじゃねぇの?」
「いや、聞いたことないな・・・。大体、ここまでだって道路に人も車も通た跡さえなかったのは、お前も見てるだろ。」
「どっか違う道路が開通したんだろ。十八浜からとかか?」
「断崖絶壁だぜ? どこに道を通すんだよ!」
「どっちにしてもここまで来たんだ。一応、行ってみようぜ?」

一旦車に戻り、上着を着てからエンジンを止める。ドアを閉めた音が、広場にこだまする。広場のあちこちに小さな階段があって、その先の闇に人気のない建物が浮かびあがっていた。やはりここに人は戻って来ていないようだ。

サクサクと地面を踏みながら、大人が二人ギリギリ並んで歩ける程度の細道を下っていく。

道の両脇には側溝があり、その先はブロック塀が立っていて、門扉付近の側溝には手作りらしい木製の小さな橋が架けられているが、どれも朽ち果てており、足を乗せただけで踏み抜いてしまいそうだ。もちろんここにも、人の気配はない。

その細道を抜けると、小さな漁港に出る。和船が数艘しか停泊できないような波止場しかないほんの小さな漁港で、その向こうにこの浜の名前の由来となっている大きく湾曲して引き絞った弓のような形になっている、小さな砂浜がある。波止場には一艘の舟も係留されていなかった。

浜の両端は、三陸のリアス式海岸特有の断崖絶壁に続いている。時折海の方に枝を伸ばした松がある程度で、新しい道路やトンネルができた気配は微塵もなかった。古びたロープや網の山がそのままに放置されていて、お世辞にも客を呼べるような環境にはない。

だが、20mほどの目の前に、木造の浜小屋があり、そこから灯りが漏れているのも事実なのだ。そしてその浜小屋から、脂の乗った魚を焼いている匂いが漂って来ていた。

「ビンゴだろ、これ! どうみても民家じゃねーし!」
「たまらねぇ匂いだな! おい!」

こうなると、もう歯止めが効かなかった。ほとんど小走りに、浜小屋の引き戸に向かった。まるで戦前の建物のような上部がガラスの古い木製の半板戸で、違和感を感じざるを得なかったのだが、すでに口中は食べ物を求めて潤い始めている。

「こんちはー!」

ガラガラと板戸を引き開けて声を掛けた。土間に陳列棚やガラスケースが置いており、こちらはちょっとした土産物コーナーのようになっているらしかった。

もう一度声を掛けようとした時に、土間の向こうの小上がりの障子が開いて中年女性が現れた。

「はいはい、いらっしゃい。」
「あの、こちら食事はできますか?」
「あいにく米は切れてしまって・・・海の物しかありませんが、それでも良ければ・・・。」
「そうですか! いやもう、何か食べられれば贅沢は言いませんので、食べさせていただけますか!」
「ええ、ええ、そりゃもう。さ、どうぞお上がり下さい。」

障子の向こうは囲炉裏の切られた板の間と、その奥に十畳ほどの座敷があり、座敷の方には大きな座卓が二つ、それぞれの席に座布団が置かれていた。

手前の座卓に並んで座るように促され、すぐに熱い番茶が運ばれてきたが、どこを見回してもメニューらしきものがない。

「うちはある物をそのまま出させていただくので、メニューは置いてないんです。もういいと言われるまで、料理はお出ししますので。」

そう言っている間に、渋くくすんだ朱色の和服を着た女性が小鉢を運んで来た。小鉢とは言っても、ちょっとしたどんぶりに思えるほどに大きい。中には、ごろっとしたタコの切り身とわかめやキュウリの酢の物らしい物が入っている。

それをこれも長さも太さも通常より二回りほども大きな木製の箸で掴み、口に放り込んでみると、抜群に旨い。タコの味がとても濃く、酢の加減も絶妙だった。

「んっ! これは旨い!」

俺も弟も、養殖漁業が稼業の家に生まれ、幼い頃から海の幸だけは新鮮で良い物を食べている自負があったが、それでもこれほどに旨いタコは食べたことがない。

二人とも夢中で箸を進め、あっという間にペロリと平らげたところに、今度は鮮やかなグリーンのTシャツを着た若い男性がお造りを運んで来た。ここの子供だろうか?

長方形の大皿に、これでもかと言うほどに厚く大きく切られた刺身が盛られている。赤みはマグロ、白身はハマチだろうか。イカや甘エビもどれも大振りで、しかも味が濃い。

「むっ・・・これも、旨いな・・・。」
「うん・・・もしかして、とんでもなく高いんじゃないのか?」
「俺、一万とちょっとしか手元にないぜ?」
「俺も似たようなもんだ。カードが使える雰囲気でもないしな・・・。」
「まあ、足りなかったらあとで届けに来ればいいだろ。近所みたいなもんだしな。」
「それも、そうか。」

そして刺身盛りが食べ終わると、今度は派手なオレンジのヒラヒラした服を着た女性が、赤魚の煮つけを運んでやってきた。年代は60代というところなのになんとも派手な服装だと思いながら、煮つけの見事さにそんなことも忘れてしまう。

切り身なのだが、驚くほどに大きい。赤魚の煮つけは好物中の好物なのだが、切り身のサイズからしてキンキではないだろう。鯛だとしても、80cmは超えてくるサイズに違いない。

「お前、こんな大きい赤魚の煮つけを見たことあるか?」
「・・・いや、ないな。メヌケでもメバルでもねぇよな? 鯛か?」
「俺にもわからねぇ・・・。」

好物なだけに、興味が湧いた。鯛だとしたら、とんでもない金額になる可能性も引っ掛かった。

「すみません・・・」

皿を運んで来た女性が座敷から出て行くところだったので、振り向いて声を掛けようとしてギョッとした。

障子の向こうがすぐに大きな台所になっていて、そこに7~8人の人間が見えた。全員がバラバラの服装で、料理人のような服装の人間が一人もいない。そして全員がただ立ち尽くし、こちらをじっと見ているだけなのだ。

料理をしている雰囲気がまったくない。その中の一人、禿げあがった頭に口髭を蓄えた貫禄のある老男性の目が、キラッと光ったように見えた。反射などではなく、瞳そのものが光を発したように。

あっ、と思った時、障子が閉まった。
自分が今見たものが信じられなかったが、目の錯覚ということもある。
だが、料理をしている気配がないのは間違いがない。建物の大きさから考えても他に台所があるようにも思えない。

「おい・・・」

何かがおかしいぞ、と言おうとしたが、夢中で煮つけの身を解いている弟の姿を見て考えが変わった。好物の誘惑に負けた。

食べてみると、やはり旨い。骨から身がホロホロと解ける。今までにないほどにゴロッとした大きな塊になる赤魚の煮つけを、口に運び続けた。だが、とうとう決定的な『あること』に気が付いてしまった。

「お、おい!・・・これ見ろ!」

それは、自分が今食べている赤魚から取り出した骨だった。大きさからしても背骨の一部のようだったが、いわゆる「刺突起」の部分が星形に伸びており、しかも細くて鋭い。

大きな筋肉を吊るように太くて短いはずの「刺突起」が、である。これでは大きな筋肉は吊れないし、そもそも放射状に伸びているということがあるはずもないのだ。

弟に箸でつまみ上げた骨を見せながら、おかしい点があることを告げるが、相手にされなかった。

「なんだよ! そんな骨くらいなんてことないだろ。全部の魚を知ってるわけじゃないだろ?」
「だったらこの魚はなんだよ? キンキでもメヌケでも鯛でもないぞ。こんな魚、見たことも聞いたこともない!」
「聞いてみたらいいじゃねぇか! 大体、兄ちゃんが知らない魚の名前を俺が知ってるわけないだろ。」

そのタイミングで、また後ろの障子が開いた。
今度は茶色に黒のドットが入った着物の女性だった。

「そろそろ、お酒もよろしいんじゃないかと思って。」

大振りの湯呑に、たっぷりと日本酒が満たされていた。さっぱりとした柑橘を思わせる芳醇な香りが辺りに漂った。

「奥さん、わかってるねぇ! ちょうど飲みたいと思ってたんだよ!」

一口、酒を啜った弟の目が、大きく見開かれた。

「やばっ! こりゃ、本気でうめぇ! なんて銘柄ですか?」
「さあ・・・私はお酒は詳しくないので・・・。」

ニコニコと相槌を打ちながら、女性は俺にも酒を勧めてきた。

「いや、運転があるので酒は・・・」

断った瞬間、一瞬のことだったが、女性の表情が凍り付いた。驚くほどに無機質な冷たい表情だった。

「あら、それなら泊まっていかれたらいいじゃないですか。」

すぐにまた笑顔に戻って、そんなことを言い出した。

「明日は予定があるので帰らなければならないんです。」
「そうなんですか? でも、せっかくですから一口だけでも・・・。」
「いやいや、この雪道で夜間ですからね。それに、飲酒運転は厳罰ですよ?
お酒を提供する飲食店の店員さんが、車で来てると言う客に酒を勧めたらまずいですよ。」

また能面のような顔つきになった。やはり、何かがおかしい。
法律を知らない訳でもあるまいに、どうしてここまで酒を飲ませようとしてくるのか。それに、冷静に考えてみれば全員が飲食店の店員とは思えない服装だし、家族経営だとしても構成がおかしい。

そもそも、これだけの人数がこの天候の中、どこからやって来たのか。ここに住んでいるわけでないのは明らかだ。それに、ここまで自分たちが乗って来た車以外に車を見ていない。道路にはタイヤの跡どころか、足跡さえもなかった。では海からか、と言っても船がない。

考えれば考える程、おかしな点が多いことに気が付く。

「・・・ところで、このお魚はなんていうんですか?」
「えっ! あ、ああ、赤魚の煮つけですよ。」
「いや、赤魚と言っても、いろいろでしょう? これはキンキでも鯛でもないと思うんですが・・・。」
「さ、さあ・・・あ、あの、板前に聞いてきましょうね!」

そう言うと、女性はそそくさと立ち上がり、障子を開けた。今度はしっかり目で追うと、台所の人数が増えている。先ほどの倍、おそらく20人近い服装も年代もバラバラの男女が立ち尽くし、こちらを見据えていた。

これにはさすがに驚いた。背筋を冷たい物が走った。
障子が閉まるとすぐに、弟の腕を掴む。

「おい! なんだか様子がおかしい! 今すぐここを出よう!」

だが、弟にこちらの声は聞こえていないようだった。一心不乱に箸を動かし、酒で流し込んでいる。

「お、おい! ヤバいぞ、おい!」

立ち上がり、財布から一万円札を抜き出して座卓に乗せた。まだ座って食事を続ける弟の手を引っ張り上げようとしたが、その手は激しく振りほどかれた。

その時だった。あちこちから一斉にクリック音と呻くような声が響いて来た。同時にガタガタと激しく人の行き来するような音がしている。どうやらこの座敷を囲もうとしているようだった。

「い、いい加減にしろ! この音が聞こえないのか!」

弟の頬を強く張った。だが、それでも弟は食べることを止めない。肩を掴んで強く揺すってみたが、結果は変わらない。憑りつかれたように飲み、食べていた。

「くそっ!」

こうなっては仕方がない。俺は弟を引っこ抜くようにして立ち上がらせると、身体を持ち上げて肩に担いだ。弟は激しく手足をバタつかせて抵抗したが、その動きには知性のかけらも感じられない。まるでカブトムシを背中から掴んだ時のようだ。

そのまま土間の方へ向かった時、土間側の障子が勢いよく開いた。目の前には最初に応対に出てきた女性が、通せんぼをするように両手を開いて立っていた。

その姿を見て、俺は一瞬固まってしまった。その眼窩には、眼球がなかった。その位置にはぽっかりと何もない、黒い穴が開いている。何かを話すように口をパクパクさせているが、声は聞こえなかった。

「う、うわぁーーーっ!」

俺は反射的に座卓の箸を掴み、その女性の肩口に突き刺した。
箸はぐにゃりとした感触とともに、向こうまで貫通してしまう。当たるはずの骨に、当たらないのだ。

女性がその攻撃にダメージを喰らった様子もない。相変わらず口をパクパクさせながら、倒れ込むように掴みかかってくる。慌てて箸を引き抜き、こんどは黒い穴だけの眼窩に箸を突っ込んだ。

箸は驚くほど奥まですんなりと奥までめり込んだ。普通の人間なら、脳の奥の方まで箸が刺さったはずだが、女性は軽く顎をのけぞらせ、「ゲッゲッ」という音を出しただけだ。まるでこちらをあざけるかのように。

今度は台所側の障子が開き、同じように眼球のない集団がのそりと座敷に入って来た。動きはゆっくりだが、手探りをするように手を前に突き出しつつ確実にこちらに近付いて来る。

頭の、ちょうど耳の後ろの辺りから、青と黄色の蝶の羽のようなものが見え隠れしている。よく見るとそれは、ところどころに白い点のある、軟質性の肉のようだった。歩みに合わせてブルブルと揺れ動くさまは、毒々しい不気味さを持っていた。

ダメだ。この人数で囲まれたらどうしようもなくなる。俺は一歩下がって反動をつけてから、目の前の女性の胸を思い切り蹴った。女性がもんどりうって土間に倒れ込んだ上に飛び降り、女性を踏みつけながら土間を通って引き戸に向かう。

女性を踏んだ時の感覚を、一生忘れることができないだろう。明らかに人を踏んだ時の感触ではない。膝の力が抜けてしまいそうなほどにぐんにゃりとして、ぬるりと滑ったのだ。

裸足のままで引き戸を引き開け、外に出る。そのまま道を引き返したものの、息切れが激しく、このまま弟を担いで細い坂道を登っていくのは無理があると悟った。

そこでハッと思い当たった。
今担いでいるのは、本当に弟なのか?

動きの遅いあの連中とある程度の距離が開いたことを確認して、未だにバタバタと力なく手足を動かしている弟を肩から降ろす。地べたに仰向けに寝転がりながら、まだ手足を動かしている。その眼窩にはしっかりと眼球があったものの、どこを見ているのかわからない虚ろな目をしていた。

俺は肩で呼吸をしながら、それでも必死に呼吸を整えようとした。数回深呼吸を繰り返してから、右手にまだ箸を持っていることに気が付いた。

「すまん!」

そういいながら、弟の上腕に箸を突き立てる。ぐにゃりとした感触の後に、固い物に当たった手応えが感じられ、傷口からは血も流れた。良かった。『まだ弟』だった。

どうしてそう思ったのかはわからなかったが、とにかくホッとした。

「い、いてぇっ!」

腕の痛みに正気に戻った様子の弟が、肩に突き立った箸を見て驚きの表情を浮かべる。数舜、辺りをキョロキョロすると、状況が理解できたように、慌てて立ち上がる。

「お、おい! やべぇ! 早く逃げよう!」

言われるまでもない。俺はまだふらついている弟の左肩を掴むと、坂道へと急いだ。眼球のない集団は確実に距離を詰めて来ていたが、どうやら逃げ切れそうなくらいには、まだ距離が空いている。

「あ、あいつら! なんなんだよ!」
「知るかっ! とにかく車に急げ!」

その時、気が付いた。しまった。車のキーは上着のポケットに入れてある。その上着は、あの座敷のどこかに脱ぎっぱなしのままだ。

「ヤバい。車のキーが置きっぱなしだ!」
「マ、マジかよっ! どうすんだよっ!」
「ど、どうするって・・・。」

走る速度が落ちて、やがて止まった。あの集団が相手なら、何とか回り込んで座敷に戻れるかも知れない。ほとんど手探りで進んでいるような速さだから、囲まれさえしなければうまくやれそうだ。

しかし、そこで自分たちが裸足なのに気が付いた。気が付いた途端に足が痛み出す。靴下をはいただけの足で、雪の積もった道路をここまで走って来たのだ。今までは夢中で気が付かなかったが、これではいつものように走ることは無理だろう。

「・・・ダメだ。とにかくこのまま県道まで出よう! 県道沿いに道を戻るんだ。」
「そ、そんな・・・。何とか戻って・・・」

弟がそこまで言い掛けた時、追い掛けて来る集団の中から一人の女性がこちらに向かって一直線に走ってくるのが見えた。動きが速い。しかも、こちらが見えているように真っ直ぐに向かってくる。グレーのスーツのジャケットの裾を翻すようにしながら、ものすごい勢いで向かってきた。

「まずいまずい! い、急げ! 何とか県道に出るんだ!」

反転して再び坂道に向かって走り始めたが、足の裏の痛みと冷たさに気が付いてしまった今、思うような走りができない。そうしている間にも、女性はみるみるこちらとの距離を詰めて来ていた。間違いない。彼女にはこちらが完全に見えている。

そして、俺たちは坂道に入る直前で彼女に追い着かれた。

「ああっ! うぅーっ!」

言葉にならない唸りを発しながら、女性が近付いて来る。こちらも逃走を諦め、振り返って身構えた。彼女は走ることはなくなったが、ヒタヒタと歩きながら確実に距離を詰めてきた。ぼさぼさにうねった長い髪は濡れていて、一部が顔に貼り付いていた。

歩いてきながら、彼女が右手を前に差し出す。その手に、車のキーが握られていた。

「あっ! ああっ!」

またもや言葉にならない声を発し、キーを振りながらなおも近付いて来ると、彼女はそのキーをこちらに向かってぎこちなく投げてよこした。そしてその手を、まるであっちに行けというように大きく打ち振る。

俺は慌ててキーを拾い上げ、呆然とする弟の肩を叩いて細道を登り始めた。辺りの光景が一変する。ブロック塀は、赤黒い襞のある肉の壁に変わった。ところどころに白い点があり、そこから脈動とともにぬらぬらとした粘液が滴り落ちてきた。

「な、なんだこりゃ!」
「いいから! 進め! とにかく進め!」

壁は徐々に広く、そして色も桃色に変化していく。やがて唐突に壁がなくなって車を止めた広場に出た。たった今二人が出てきた場所は、まだそこでビクビクと脈打ちながら、こちらに伸びてこようとしているように見える。

車のキーを出してドアのキーホールに当てがおうと試みるが、寒さと恐怖で震える指がいうことを聞かない。

「は、早く! 早く開けてくれ!! た、頼むよ!!」
「わかってる! 焦らせるな!」
「む、無理だよ! と、とにかく急いでくれ!」

震える右手を左手で抑え込み、何とかキーを差し込んで捻る。カッという音と共にロックが外れると、俺は運転席に、弟は運転席側のドアから後席に転がり込んだ。ドアを開けた瞬間に光るルームランプが、こんなにも安堵感を与えてくれるものだと、その時初めて知った。

ドアをロックしてコラムの部分にキーを差し込む。だが、いくらキーを捻っても、セルモーターが悲し気に咳き込むだけでエンジンが始動しない。ここに来てバッテリーが根を上げたと言うのか。

「な、なにやってんだよ! お約束過ぎんだろ!」
「黙ってろ!」

俺はエアコンとデッキのスイッチをオフにした。ドアが閉まって消えたルームランプも念のためにオフにする。アクセサリーソケットに刺さっているプラグを抜き、暢気に「カードの有効期限は・・・」と喋り出したETCのコードを引きちぎった。同じようにドライブレコーダーの線も引きちぎる。

「お、おいおい! 来た! 来たぜ! は、早く早く!」
ピンク色の『肉の出口』から、眼球のない集団が現れ始めた。車までの距離はほとんどないに等しい。

俺はもう一度、車の中を見渡した。とにかく電気をセルモーターに集めなくてはならない。どこかに無駄にしてる電気がないかを確認して、祈りを込めてキーを捻る。

長すぎる程の咳き込みが続いた後、ようやくエンジンがその重い腰を上げた。慎重にアクセルを踏み込み、エンジンの回転数を上げる。ルームミラーにマフラーから排出された青白い煙が大量に映った。

「や、やった! 掛かった!」

ギヤをリバースに入れ、アクセルを踏み込む。集団との距離が一気に広まると、ハンドルを左に大きく切った。途端にリアに衝撃が走ったが、俺はそれに構うことなくギヤをドライブに入れ直し、今度はハンドルを右に切って県道に向かって恐ろしいほどの速度で支道を駆け登った。

「や、やった・・・!」
「な、何とか逃げ切った・・・!」

後部座席では弟が身体を反転させて後ろの様子を見ていた。車が走り去る様子を見るとはなしに見ていた集団の動きが止まる。どうやら諦めたようだ。

「おい、タバコ、タバコくれよ。」

未だに激しく震える身体を抑えるようにハンドルを握りながら、後席の弟に話し掛けた。タバコを止めてしばらく経っていたが、今はもう吸わずにはいられない気分だった。

「あ、ああ・・・。い、いてっ!」

シャツのポケットからタバコを取り出そうとして、右肩に突き立ったままの箸がどこかに触ったらしい。悪態をつきながら箸を引き抜いたようだ。

「ひ、ひでぇな! こんなに深く刺しやがって!」
「そうするしか、なかったんだよ! グローブボックスにタオルが入ってるはずだから、傷口縛っとけ。」

その声に導かれるように、運転席と助手席の間から身体をくねらせて助手席に身を移した弟は、グローブボックスを開けてお年始でもらったタオルの包装を乱暴に引き裂くと、シャツの袖の上から傷口にあてがった。

「一人じゃ縛れねえよ・・・。」
「それもそうか。じゃあしばらくそのまま抑えとけ。人のいる場所まで出たら縛ってやる。」

自宅前まで延びている私道を通り過ぎ、町場の方へ向かう。今夜はとても家に帰る気分にはなれなかった。

「なんだよ。結局町場に向かうなら最初からそうしておけば・・・。」
「病院に行かなくちゃならんだろ。それに・・・お前、今夜実家で寝る勇気あるか?」
「・・・いや・・・。ねぇ・・・。」
「だろ? どうしたって今日くらいは遠くで過ごしてぇよな?」
「・・・ああ。」

思い出したように、弟がタバコを吸いつけてから口に咥えさせてくれた。同じように弟もタバコに火を点ける。大きく煙を吸い込んで吐き出すと、ようやく人心地ついたような気がした。

「・・・なあ、兄ちゃん?」
「なんだよ。」
「気が付いてたか?」
「・・・何が?」
「あの、最後に車の鍵を投げてくれた女の人な・・・。」
「あ、ああ。そうだった。アイツだけ動きが速くて、なんかこう意識みたいなのがあるみたいだったよな。」
「あれ・・・兄ちゃんの彼女じゃねぇか? ・・・ほら、アキちゃん。」

言われるまで気が付かなかった。
記憶を思い返してみて、気が付いた。

そうだ。
あのグレーのスーツ。ソバージュのかかった長い髪の毛。

震災で行方不明になったまま、未だに見つからないアキの姿によく似ていた。

6年も交際し、そのうち2年は一緒に住んでいたと言うのに、どうして今まで気が付かなかったのだろう。数度しか顔を合わせていない弟が気付いたと言うのに、なんで俺は気付けなかったのだろう。

「な? そうだろ? アキちゃん、助けてくれたんじゃねえのか?」
「・・・。」

認めたいようで、認めたくなかった。
認めてしまったら、何かが壊れてしまう気がした。

あの震災から時が経っていても、周囲がどんなに復興し、発展を見せていても、俺の時間は止まったままだった。俺の震災は、まだ終わっていない。

「・・・そうかも、知れんな。」

絞り出すようにそう呟いた時、さすがに弟も何かを察したように、黙り込んでしまった。


それからどうにかこうにか町場まで辿り着き、コンビニの駐車場で弟の傷口を消毒し、タオルでしっかりと結んだ。何か買いに行きたかったが、二人とも裸足で、片方はシャツに血の跡が付いている。ここで通報でもされたらつまらない。

そこからほど遠くないところに大きな救急病院もあったが、同じように考えて、二人とも子供の時から世話になっている老医師の営む病院で治療をしてもらった。時間は午後11時になるところで、寝ようとしていたところだったらしいが、二人の風体を見てただ事ではないと思ったらしく、治療を引き受けてくれた。

驚いたことに、重症だったのは俺の方で、左の足の小指が凍傷で、もう少しで切り落とさなければならないところだったと言う。

当然のように、怪我の原因を聞かれた。
いくら気心が知れているとは言え、それは当然のことだろう。
二人とも、少し前に経験したことをそのまま話して聞かせた。

「・・・ふぅむ・・・。にわかには信じ難いが・・・。」

そう言って二人の顔を交互に見つめてから、老医師は話を続けた。

「弓浜にそんな浜小屋があるなんてことは聞いたこともないが・・・。二人の話を聞いていて思い出したことがある。この辺りには昔から海で亡くなった人は、ウミウシになって帰って来るという言い伝えがあってな。儂も子供の頃に聞いただけで、今ではそんなことを言う人間も少なくなったが・・・
ウミウシが派手でいろんな形があるのは、亡くなった人が精一杯のお洒落をして故郷に帰って来るからなんだそうだ。いつか自分の親しかった人が海に入った時に気付いてもらえるように、な。もしかしたら、お前さん達もその仲間に加えられそうになったんじゃないのか? 知らず知らずのうちに、向こうの世界に足を踏み入れちまったんだろうよ。とにかく、今日は入院ということにしておくから、二人ともここで休んでいくといい。」

入院とは言っていたが、ここに入院設備はない。
昼間勤めている看護師も通いでくる人間ばかりで、この時間の病院にはこの老医師しかいない。この老医師も、震災の津波で家族を全員亡くしていた。

二人は診察室にある二台のベッドに横になり、身体を休めた。弟はすぐにいびきをかき始めたが、俺の方は完全に目が冴えて、眠れそうもなかった。

老医師の言葉が、頭の中で繰り返される。
あの話が本当で、車のキーを投げてくれた女性がアキならば、アキはもうこの世の人ではなく、向こうの世界の住人でありながら俺たちを助けてくれたということになる。

あの後、アキはどうなっただろうか?
俺たちを逃がした罪をなすり着けられて、ひどい目に遭わされたりはしていないだろうか?

もう少し、しっかりと話したかった。せめてあの時、俺が気付いてさえいれば、もしかしたら車で一緒に逃げられたかも知れない。そうしたら、アキはこっちの世界に戻れたんじゃないのか?

いろいろな思考が、次々と浮かんでは消え、消えては浮かんで来た。
だが、結局のところ、いつものよう適当に言い訳を考えて、自分を納得させるしかない。

明日は、数年ぶりにアキの家族を訪ねてみよう。
もしかしたら新しい事実が判明しているかも知れない。
風の噂では、家族はもうアキが亡くなったものと決めて、墓も建てたらしかった。

未だにそれが認められない俺は、一度もその墓を訪れたことがない。
家から指輪も持って行こう。

あの震災の日から数日後、彼女の誕生日に渡そうと考えていた指輪を。
そして俺は、眠りに落ちた。


「ウミウシの浜」
了。






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八神 夜宵 |小説家
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