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小説「冬の桜」 ③

最初に聞いていた入院期間は、三日目前に過ぎてしまった。
人生初の入院は、二桁に突入した。

身体の調子は日を追うごとに、少しずつ快方に向かっているのだが、同じように毎日毎日、検査にも追われている。

今までの私なら、多少無理をしてでも退院を申し出ただろうし、少なくても会社の近くの病院へ転院を願い出ていたと思う。

そうならない理由は、早田さんだった。
あの日から二日後、約束通り検査の後に現れた早田さんとまた話し込み、それからは毎日、早田さんは温泉宿での勤務が終わってから病院に訪ねてきてくれる。

話の中で、二人とも仕事一筋で縁に恵まれず、結婚どころかろくに恋愛経験すらないことがわかった。

製薬会社の研究員として定年まで勤めあげた後、生まれ故郷であるこの地へ戻り、温泉宿で手伝いをしながら、自由気ままな生活を送っているらしい。

何となく、お互いが距離感を測りはじめた雰囲気があった。
少なくても、私はそうだった。

退院してしまえば、私は遠くにある自分の世界に戻り、この何とも言えない高揚感とは別の感覚を味わうことになるだろう。

まだ、手放したくなかった。
人に話したら、冷めた笑みで応えられるのが目に見えていたが、もう一つの「人生初」を、もう少し味わっていたかった。


「永山さん、診察のお時間ですよ!」

開いたままの戸口から、川島さんが声を掛けてきた。
私は窓際のソファから立ち上がり、自分で歩いて診察室へと向かう。

ゆっくりとなら、息を切らすことなく歩くことができるようにまで、回復していたのだ。


私の担当の山崎医師は、大学病院から応援で来ている医師だった。
40代の後半に見え、いつも手脂のついたレンズの眼鏡を通して物事を見ているような人だった。

腕の方は確かなようで、私の不整脈を抑えるために行うカテーテル手術においては、日本で最大数の症例をこなしてきた方らしい。

「永山さん、お加減はどうですか?」
「おかげさまで、ここまで歩いて来られるようになりました。」
「それは良かった。・・・それで、今日はちょっとお知らせしたいことがありまして・・・。」

そういう切り出しで始まった話は、すぐには受け入れがたいものだった。

以前に行った経食道エコー検査で、食道にガンらしきものが見つかった、というのだ。

もちろん、まだ可能性の話でしかなく、組織を採取して生検に出さなければ良性か悪性かの診断もできないと言うが、見た感じではまだごく初期段階で、進行する前に切除してしまおう、という話だった。

「何とも言えませんが、この程度なら4層のうちの表層部分しか侵食されていない可能性が高いと思います。私としては、不整脈の手術の前に、こちらの切除を行うことを提案したいのですが・・・。」

ガン。
まだ可能性ということだが、その二文字は私に深い衝撃を与えた。

「日本人の二人に一人はガンになる」

と、知識としては知っていたが、自分にその順番が回って来ると考えたことなどなかった。

「・・・それでその準備が整う間に、PET-CT検査を受けてみましょう。」
「・・・はい・・・。」
「幸いにも、今日午後からの予定が空いたんですよ。このまま午後に入れてもいいですか?」
「はい・・・。」

山崎医師や担当の看護師から、様々な説明を受けたが、その全てに生返事で答え、私は一旦病室へと戻った。

どんな話だったのか、少しも覚えていなかった。
ベッドの端に腰掛けて言葉を思い返そうとしたが、「ガン」という言葉しか思い出せない。

検査のために食事を抜き、全部で2時間ほどの検査を受けて病室に戻ると、もう辺りは暗くなっていた。

そのままぼんやりと過ごし、いつの間にか消灯の時間となった。
その時になって初めて、今日は早田さんが来なかったことに気が付いたが、深く考えることもなく、横になってテレビを点けてみた。

もともとテレビを見る習慣のない私は、別に見たい番組があるわけでもなく、かと言ってすぐに眠くなるわけでもないのでこうしているだけだ。

途中からだったのでどこかまでは分からなかったが、大きな火事が起きているようだった。強風に煽られた火勢から逃げ出してきた人の波が映っている。

ほんの一瞬のことだったが、煤だらけの子供を抱えて走る人が、早田さんに見えた。

ギョッとなって身体を起こしかけて、すぐに見間違いだと悟った。
このニュース映像が、今日の夕方に九州の方で起きた大規模火災の映像だとテロップが流れたからだ。

さっきまですっかりと忘れていたのに、思い出した途端にこんな見間違いをするとは、自分のことながら情けない気分になる。

そうなってみて初めて、早田さんに何かが起きたのか、心配になってきた。
仕事が忙しかったのかも知れないし、何か他の用事が入ったのかも知れないし、もしかしたら川島さんから私の様子を聞いて帰ってしまった可能性もある。

できるだけ良いイメージにしようとするのだが、そうすればするほど、交通事故や急な体調不良など、悪いイメージが次々と沸き起こって来る。

『そういえば、連絡先を知らなかった』

温泉宿に連絡する、という手段ももちろんあったが、そこまでするべきかどうかと言えば、そんなわけはない。

聞いたところで、「ただの顔見知り」程度の関係者に、簡単に連絡先を教えてくれるはずもない。

『まったく、どうかしてる・・・。』

暗い部屋で、一人苦笑いを浮かべた。
テレビを消して仰向けになり、目を閉じる。

これからやることを頭の中で整理している間に、眠りに落ちることを期待した。

朝一番には、会社に連絡を入れなくてはならない。
師走も間近に迫っているから、全ての予定を取締役に代わってもらう段取りをつけなくては。

家のこともそうだ。
家政婦が維持管理はしてくれているだろうが、そろそろもう一度連絡を入れておくべきだろう。

今後のことについて、弁護士や税理士とも話さなければ。

そうだ、早田さんの連絡先も忘れずに聞くことにしよう。
こんな思いは、もうしたくない。

そんなことを考えているうちに、私は眠りに着いたようだった。


「冬の桜」 ③
了。

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