その瞬間は濁流に飲み込まれるのに、今日も普通に生きている自分ってなんだろうね~「ライカムで待っとく」 ~
2024年6月、KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオにて「ライカムで待っとく」を鑑賞したときの記録。と、振り返りながら思うこと。
米兵殺傷事件が起きた1964年と現代が交錯する中、果たして当時と今とで、沖縄を取り巻く状況は変わっているのか?と問いかける作品。沖縄本土復帰50年の2022年に初演された作品の再演を鑑賞。
あらすじ
雑誌記者の浅野(中山祐一朗)は、上司の藤井(前田一世)から、パン屋店員・伊礼(蔵下穂波)を紹介される。古い写真に写った若い頃の祖父が、浅野にそっくりだと言う。伊礼の祖父は、沖縄で起きた米兵殺傷事件の手記を残しており、手記を基に記事を書いてほしいと浅野は頼まれる。
妻・知華(魏涼子)の祖父の葬儀で神奈川から沖縄へ向かう予定だった浅野は沖縄へ向かい、現地のタクシー運転手(佐久本宝)から、「イオンモール沖縄ライカム」が、元々は米兵専用のゴルフ場だったことなどを聞く。
知華は写真に、祖父・佐久本寛二が写っていることに気づき、実家を整理していると、寛二が米兵殺傷事件の被告人として逮捕されていたという新聞を発見。
浅野たちはユタの金城(あめくみちこ)を訪ね、金城はコーラに写真をつけて食べることで、祖父の霊を憑依する。
当時の沖縄の飲み屋での会話、不条理な事件の取り調べ(「たっくるす」をあえて言い換えるならなんなのか)。1964年の物語は回想ではなく、リアルな実感として浅野に迫ってくる。
物語終盤、浅野の娘と、伊礼が行方不明になるが、1964年の人々が浅野らに語る。
・沖縄は日本のバックヤード
・あなたが悲しいうちは、悲しそうに見えるうちは、寄り添いますよ?あなた方もいつもそうしてきたでしょう?
・沖縄だから裁かれない事件があった、日本本土の平和はそうやって維持された、これが沖縄の現実だ
鑑賞後の感想
第30回読売演劇大賞優秀作品賞受賞、第26回鶴屋南北戯曲賞ノミネート、第67回岸田國士戯曲賞最終候補作に選ばれるなど、とても話題になっていたから、かなり期待値が高かった。その分、観劇体験としてはやや残念だったというのが本音。
現代に上演価値ある作品であると思うし、これを鑑賞する機会を得られたことには感謝したい。観る人の頭をぶん殴るような「あなたは知っていたのか、知ろうとしたのか、知った気になっていないか、これで知った気になるな、それで今後そうするんだ」という強烈なメッセージの濁流には溺れたし、熱量には圧倒された。
高嶋慈さんによる批評中、「性暴力の被害者の声が、「見えないようにバックヤードに隠されるべき」という決定が下される場が、すべて男性(佐久本、彼の友人と同僚、浅野=伊礼の祖父の4名)によって占められていることにも注意する必要がある」との言及にも考えさせられた。この部分も、過去の話だとは到底思えない現実があるだろう。
一方で、ストーリーの詰め込みや展開の強引さ、設計の粗さなどを全てメッセージで押し切ろうとするような乱暴さが、気になってしまい、冷静になってしまう自分もいた。
フィクションに「フィクション感」などという言葉を使うのは適切ではないが、それでもフィクション感が強すぎてしまうと、物語は作り物としての器でしか無くなってしまい、日常と非日常の境目を明確化してしまう。
もっと仕掛けをそぎ落とせば、観客に「メッセージの本質を考える」時間を与えることにつながり、より観る者を違う方法で揺さぶれたのではないかと思ってしまう。
もちろん、作者の「あの世界もこの世界も、あの考えもこの考えも、見せたい、伝えたい」という情熱には心打たれるものがあるが、「抑える」ことで迫れる要素への追求にも今後期待したい。
そして今日も私は普通に生きている
こういうメッセージ性の強い作品は、しばらくしてから自責の念となって蘇ってくることが多い。知らなかった現実・知ったつもりになっていた現実に対して、その後お前は何をしたのかと問いかけてくる。
この劇の参考になった伊佐千尋「逆転:アメリカ支配下・沖縄の陪審裁判」だって積読だし、毎日いろんなニュースに胸を痛める割に何か行動につながるわけでもない。
そんな自分にもやっとはするけど、作の兼島さんがフライヤーに綴った言葉を紹介するくらいしかできないのである。