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第31章 春節の銘德一村 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第31章です。

※ 原文内容の事実確認による検証・訂正などはせず、そのまま記載しています。

 銘德⼀村は40戸ほどの小さな眷村けんそんです。

 民国50年代(西暦1961年〜、昭和36年〜)当時、毎朝夜が明けるとどの家庭も忙しく活動し始めました。
 眷村の子供たちの中で一番年上だったのは中学生で、他は大半が小学生か、小学校附属の幼稚園に通っていました。それよりもっと小さい、おむつを履いている赤ちゃんもいました。

 私たち3列目の家に住む奥さんたちは比較的年上が多く、お姉さん的な立ち位置で、若い奥さんたちのお世話をすることが多かったです。そうして暮らすうち、皆はまるで一つの家族のようになっていました。通年の行事なども皆で一緒に相談し、助け合って過ごしました。

 春節の一ヶ月前になると、皆はソーセージを詰めたり、「臘肉ラーロウ(中華風の干し肉)」を作り始めます。こうしたことができるのは外省人の奥さんたちだけで、私たち本省人の奥さんたちは彼女たちに作り方を教わりました。湖南から来た謝ママや、北京から来た馬ママ、山東から来た李ママは特別親切で、塩漬けして臘肉を作る方法や小麦粉料理といった得意料理を教えてくれました。

 春節(旧正月)から数えて15日目、最初の満月の日にあたる元宵節げんしょうせつは、春節行事が終わる大切な節目で、この日は湯圓タンユエンを作ります。
 それぞれの家庭から1斤か2斤の米代を集め、もち米を買いました。もち米を研ぐのは私の仕事で、きれいに研いだら鍋の中に入れて、一晩水に浸けます。翌日、もち米と清潔な小麦粉袋を持って眷村の外にある陳姉さんの家まで行き、石臼を借りてペースト状になるまですり潰します。できあがったら袋に入れ、さらに袋の上から石臼で押し、水分を絞り出します。こうして午後3時まで作業を続け、やっと完成したものを持ち帰ることができました。

 大急ぎで家に戻り、袋から一塊取り出して鍋で煮ると、もち米の粉をまぶしてこね、モチモチのボールができたら湯圓の完成です。女性たちは皆大喜びで私の家にやってきて、もち米のペーストを秤で公平に分け、家に持ち帰り、それぞれの家庭で楽しく湯圓を作りました。

 元宵節の夜、子どもたちは提灯を持って海辺から山の中腹までパレードをします。年の大きいお兄さんお姉さんが小さい子どもたちを連れ、10、20人ほどが提灯を片手に暗い山道を歩きました。とても盛り上がり、子どもたちは楽しく遊びました。その時みんなを連れて行ったのは長男で、あとは李家と范家の4、5年生が数名、一番小さい子どもたちはまだ5、6歳でした。

 春節、中秋節と並ぶ三大節句の一つ端午節たんごせつにはちまきを作ります。
 ちまきが作れる女性が2、3人しかいなかったので、ちまき作りを覚えたい人は、あらかじめ材料を準備し、見よう見まねで覚えました。

 中秋節しゅうちゅうせつには淡水に月餅を買いに行きます。
 我が家は子どもが多くて良い月餅を買うことができず、あんこの代わりにさつまいもの餡で作られた、一個2元の安価な月餅で済ませました。
 どの家の子どもも月餅が大好きで皆よく食べるので、4、50個の月餅を買い、丈夫な小麦粉の袋を用意し、それに詰めて持ち帰りました。

 中隊長は僻地で暮らす私たち家族を気遣い、春節の時期になると部隊の大きなトラックを派遣して、淡水まで買い物に連れて行ってくれました。皆が中隊長に感謝していました。

 中秋節には淡水に月餅やザボンなどの果物を買いに行き、1家族1人でも車はすぐ満席になりました。トラックに乗りながら皆で楽しくおしゃべりをして、とても賑やかでした。

 当時、老梅には既成食品が手に入るような大きな市場がなかったので、春節や節句で湯圓やちまきなどを食べようにも、今のようにお金を払って買うことができませんでした。自分たちで協力して材料を買い、手を動かして作るしかなかったのです。手間と労力はかかりましたが、そこには現代の人々が理解できないような楽しみもあったように思います。

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近藤弥生子 | 台湾在住ノンフィクションライター
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