ルカによる福音書第12章13〜21節「心の倉が『私』でいっぱい」
9月8日における尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。この日の題材はルカによる福音書第12章13〜21節「心の倉が『私』でいっぱい」。ここは「愚かな金持ちの例え」と呼ばれる箇所である。この人物は、たった一人の人物であったことである。その自問自答は、まさに自己完結であった。神さまに相談も祈りもなく、自分による自分のための解決を望んだのである。彼の決めた収穫増による蔵の増設案には、致命的な欠陥があった。それは「人は必ず死ぬ」ということである。金持ちは夢の中で、神からその夜の絶命を告げられた。財産はあの世には持って行けない。
あるコメディアンが手術から退院してした時に、ふだんなら面白可笑しいことばかり言っているのに、インタビューでは真顔で「自分は生きているというより、生かされているんだなと思う」。将来の計画を立てるのは良い。たしかに必要である。しかし明日のことはわからない。未来は文字の前に「 」付きである。「もし神さまが許されるなら」という条件付き。ヤコブの手紙第4章13〜15節には「よく聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう』と言う者たちよ。あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、もしわたしは生きながらえるならば、あの事この事もしよう」と言うべきである」。
人生は遜ること、謙遜であることが大事。第21節でイエスがまとめている。この金持ちの呟きを英語で読むとI、MY、ME、MINEが11回も出てくる。「私は、私の、私を」の私尽くしである。神の入る余地もなく、隣人の入る隙間もない。まさに人間の罪の姿である。イエスは、われわれの罪を清めるために来た。日本のカルメル会というカトリック修道会を代表する神父が質問を受けた。「カルメル会の精神とは何ですか?」と。その答えは二つあった。一つは「毎日の生活がイエスさまとあること(バス🚌を待つ間も、皿を洗う時も、いつもいつも)。もう一つは「兄弟が喜ぶことを為すこと」。最後に三浦綾子先生「続・氷点」の台詞で締めよう。「生を終えて残るものは、われわれの集めた物ではなく、与えたものである」。