「マタイによる福音書」第5章27〜32節「尊い女性、尊い男性」
11月3日における尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。テーマは「マタイによる福音書」第5章27〜32節「尊い女性、尊い男性」。
キリストは時に過激な表現をする。そこに反感や違和感も生まれる。27節の「姦淫するな」は、モーゼの十戒の一つ。姦淫とは、自分の伴侶以外と関係を持つことである。神は夫婦の営みを否定しているわけではない。情欲を抱くということは、相手を欲望の対象として見ること。あるクリスチャンの女性カウンセラーは、女性からの恋愛相談にもよく乗っていた。その中で相手にするアドバイスで多いのは「貴女のことを可愛い生き物としか(相手は)思っていないんじゃない」。そんな男性は、女性のことを物のように扱い、人として見ていない。
31節の離縁状の下りには、解説の必要がある。ユダヤでは離婚に当たって、離縁状が必要であった。これは旧約聖書にも記されている定めである。キリスト教は離婚自体を否定しているわけではない。しかし逆に離縁状さえ出せば、新しい女性と暮らせると悪用する者が多く出た。当時のユダヤでは、男性だけが離縁を申し渡せた。イエスはこのような風習を強く批判した。女性の権利の保護が必要であると唱えた。夫も妻も、相手を一個の人間として尊重すること。それは夫婦だけでなく、あらゆる人間関係に通ずる。
創世記第1章27節で「神は人をご自身の形に創造された」とある。だからこそ人間の存在意義は尊く、大切にされるべきである。右の眼や右の手を切り落とすような下りは誇張表現である。ただイエスの言いたいことは、姦淫の原因やきっかけを物理的に取り除くことの必要を指摘された。ある不倫男性は「一瞬の天国と引き換えに、地獄の日々を味わった」と語った。「ヨハネによる福音書」第8章4節には、姦淫の現行犯でパリサイ人たちにしょっ引かれた女が描かれている。「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。これはイエスを陥れようとする罠であった。しかしイエスの「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」ということばに、女を糾弾していた全てのひとがその場を去った。われわれは性的な間違いを犯した人に、白い眼を向ける。しかしイエスが言うように『心で姦淫していないか?』という観点から見れば、みんな罪人である。誰もが女を石で打てないのだ。
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