イザヤ書第49章14〜16節「母にまさる神の愛」
5月12日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。題材はイザヤ書第49章14〜16節「母にまさる神の愛」。本日はウェルカム礼拝であり、母の日。
精神科医の佐々木正美先生は、母性を「相手を包み込む」、父性を「善悪を教える」「マナーを身につけさせる」と評した。一般的に言って、両方が大切だろうが、先ずは母性が必要のはず。
創世記第1章27節には「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とある。神は父とされるが、神は男性と女性の両方を併せ持つ。
イザヤ書第49章14節のシオンとはエルサレムを指す。この部分はバビロン捕囚で、異国で辛い思いをした気持ちを表現している。母親は子供を忘れずと言うが、神もまた同じ。それは愛されることで、愛することを教えている。15節には「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない」。
10年以上前に母の日の説教の後で、ある女性が「今日だけは先生の話しを平静に聴けなかった」と言ってきた。ふだんはもの静かで、自分から何か言ってくるご婦人ではなかった。それによると「子供の頃ずっと実母から虐待されていた」。母の愛は貴重である。しかし全ての人が、その愛を享受できているわけではない。口語訳で16節の「見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ」は、リビングバイブルでは「手のひらに刺青した」と訳されている。神の愛は、自らの御子であるイエスを磔刑に送るほど、自己犠牲に満ちた愛なのである。
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