東京自粛
東京都立大学同窓会の月例勉強会「八雲サロン」(現在は隔月でzoom開催)。少し前になるが6月のテーマは、朝日新聞社映像報道部デスクにして写真家の時津剛氏。テーマは「『自粛』とは何だったのか」。これは時津剛氏の発表した写真集「東京自粛 COVID-19 SELF-RESTRAINT,TOKYO」(PLEASE)にちなんだテーマである。以下、時津剛氏の著書やご本人の弁を要約。
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2020年4月7日。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大を受け、日本で初めてとなる緊急事態宣言が発出。その日以降、時津剛氏は自宅がある東京・新宿を中心に、本格的な自粛生活が始まった街を歩き、その風景にレンズを向けてきた。五輪開催を控え、多くの外国人や観光客であふれていた首都・東京。喧騒に包まれていた街は、人という演者を失った巨大な映画のセットのように静かに佇んでいた。宣言の解除後、街は以前の活気を取り戻しつつあるように見えた。しかし、突如始まった自粛生活(体験)は、現代社会の様々な問題を可視化し、これまで日常だった生活様式や習慣など、社会全体のありようを揺さぶり続けている。自粛を促す「ステイホーム」の号令は皮肉にも、野宿生活者やネットカフェに寝泊まりする人々、DV被害者、虐待を受ける子どもなど、住む場所や安心できる居場所がない生活弱者の存在―格差を浮かび上がらせ、為政者の「夜の街」発言は、人々の潜在的な差別意識を呼び覚まし、社会の分断と偏見を生み出した。また「休業要請」というあいまいさは、飲食店などを中心に、営業の継続か休業かの苦渋の選択を迫り、感染者数の増加と比例するように高まった自粛への同調圧力は、自らの正義を振りかざす
「自粛警察」と呼ばれる人々を生み出した。それは、全体を支配する空気への異論を許さぬ、昨今の日本社会の写し鏡だったのではないか。その一方、多くの気づきも与えてくれている。自宅で過ごす時間は、家族など身近な存在の大切さや、他者とのつながりについて考える貴重な体験となり、浸透しつつあるテレワークは、働き方や住まい、時間の価値について再考させる機会になって
いる。パンデミックの要因となったグローバル化や過密都市の負の側面や脆弱性への認識も広がりつつある。コロナ禍は、経済優先、物質的豊かさ偏重の社会から、時間や精神性など無形の豊かさを重視する社会へと変化を促しているのかも知れない。過去のものとなりつつある日常、失いつつある以前の暮らし。それらを懐かしみながらも、新たな日常を紡いでいく覚悟を求められる「ウィズコロナ」「アフターコロナ」と呼ばれる世界とは、どのような社会なのか。非日常が日常となった自粛生活は社会のあらゆる問題を顕在化させ、多くの気づきを与えている。反転した都市の風景は、これまでの社会のありように変化を促しているのではないだろうか。
写真集に掲載された130枚ほどの写真、昨年、第1回目の緊急事態宣言(4月7日から5月26日)からその後の8月まで4か月間あまりの東京の街の様子が切り取られている。緊急事態宣言下の東京、写真家として外に出てどれだけ記録するか、迷っていたが、街をスキャンするように写真を撮って記録しておこうと決意。人が歩いていないのに外に出て献血を呼び掛けている人がいたり、すっかり暗くなった「夜の街」新宿ゴールデン街、閉店したカフェ、人が来なくなって線香がなくなった浅草寺、バスが溢れるはとバスの車両基地、アベノマスク、使用禁止のテープが張られた公園の遊具等々。緊急事態宣言が明け、目立つのは走り回っている宅配の人たち、今はすっかり定着したテイクアウトにウーバーイーツ、増えたプラスチックごみ、昼カフェ営業を始めた歌舞伎町のホストクラブ、テレワークにオンライン授業。ソーシャルディスタンスという微妙な距離感。あれから1年、「ウィズコロナ」の今の社会をどう見るか。タイトルの「自粛」という言葉に込めたのが、コロナ禍は、良くも悪くも、日本の「あいまいさ」を改めて可視化。こんな状況なのに「決まっていることだから」と五輪開催に流れていってしまう。解決を先延ばしにする、あいまいさ。アフターコロナ、以前に戻ったほうがよいこともあれば、戻らない方がいいこともある。