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人との距離感は難しい

私と韓国女子



私は今中国の山東省の某田舎に生息している。
仕事は大学の日本語教師だ。
大学までは電動バイクで30分。
一人でマンションに住んでいる。

このマンションにはインド人やらイギリス人やら色々な外国人が住んでいる。
しかし、私が個人的に親しかったのは韓国人の男の先生だけだ。
でも今はわけあって疎遠。

私が毎日大学で一緒に昼ご飯を食べるのも韓国人で、地元の中国人と結婚して二人の娘がいるお母さんで32歳。
今は学生として平日は大学で勉強している。

彼女は地元の韓国でも大都会のお嬢様で、旦那さんも親子で貿易会社をやっている富裕層。留学先のオーストラリアで旦那さんからの熱烈アプローチを受けて、卒業後23歳で結婚、山東省に嫁いできて今に至る。

彼女を一言でいうと、温室で大事に育てられて咲いた花。
或いは大事に飼われた犬か猫といったところだ。
性格は素直で天真爛漫、少女のよう。
口癖は「いつも前向き! 私は幸せ! みんな優しい! 大好き!」こんな感じのそれこそポジティブモンスターだ。

出会いは去年、彼女のほうから話しかけてきた。
そして前学期、彼女のほうから私の連絡先を調べて連絡をしてきた。
なぜか私は最初から興味を持たれ好かれている。

私も彼女の前向きなところや無邪気で天真爛漫なところに惹かれて仲良くなったが、正直最近はちょっと一緒にいると苦しい。

今も好きな気持ちは変わらないのだが、なにせ考え方がちがう。
考え方や価値観が違って当然なのだが、自分が基本で普通だという前提のもと「どうしてあなたはそうなの?」と言い続けられるのはしんどいし、ごはんがまずくなる。

彼女は昔から優等生で親の言うことをよく聞き、今は旦那さんやお姑さんの言うことをよく聞き、みんなに好かれているそうだ。

今自分が学生なのは、子どもが巣立った後に仕事がないと不安だということからで、しっかり勉強して学位をとって、将来はいい仕事に就きたいそうで、そのために毎日努力しているのだそう。

そんな彼女からしてみると、私は心配でたまらなくなるらしい。

「あなたは結婚もしてないし、一人だし、こんな外国で一人で何かあったらどうするの? 今からでもいい人を見つけたほうが安心でいいと思うの」

そう言う彼女に私は言う。

「家族と一緒に住んでいても、一人という状況はある。たとえば誰か『いい人』と結婚して、その人が病気になったらもっとたいへんでは?」

彼女の考え方でいうと、女は若い時に綺麗にして男の人に見初めてもらって大事にしてもらうことが幸せだと。

「がんばって男の人に好かれれば、おいしいものたくさんごちそうしてもらえるじゃない」

こうも言う彼女に私は言う。

「別に男から限定じゃなくてもいいのでは? 私はむしろ女友だちとかおごってくれるし、男女年齢関係なく、私ごちそうされるけど?」

実際、私の女友だちはその辺の男より稼いでいる人もいるし、けち臭くないし、学生でもおごってくれる時あるし、年齢も性別も関係ない。

私が何か言うたびに、彼女は「理解できないわ」と言う。

「理解できなくてもいいじゃん? 同じ考えになる必要もないし」

私はそう言うけれど、彼女は毎日同じことを言う。

「あなたが本当に自由で羨ましい。私は土日はずっと子どもの世話で、学校に来てやっと解放される。あなたは子どもがいないからわからないでしょ?」

これも毎回聞かされる。

「学生は本当に宿題が多くて忙しい。先生はいいわね。私はそんなに時間なんてない」

前に彼女がこう言った時、さすがに他の先生まで暇だという発言は失礼と思ったのでこう言った。

「学生であることは自分で選択したことでしょ。嫌なら先生やれば?」

実際、彼女は以前はこの大学で韓国語を教えていたことがあるのだ。

でも、彼女曰く、この学校で先生をやっていても将来たかがしれてるし、自分はもっと上を目指したいから学位を取って学歴をあげるのだと。

はっきりいって中国でさえ、もうそんな時代ではない。
優秀な若者でさえ、学歴があっても仕事がみつからないのだ。
ましてや結婚後一度も社会経験がなく、言っちゃ悪いが世間知らずなお嬢さんをどこの誰が雇うんだ。まあ、それこそ実家のコネとか旦那の会社でなら働けるのかもしれないが。

中国の学生でさえわかっている。学歴をどれだけ積んでも先のゴールは霧の中。でも脱落すれば未来はない。休むことも許されず闇の中を走り続ける苦しさ。今現在お稽古ごとのようにお勉強して、将来は自立した職業婦人になりますのなんていうのは、疲れて心が病んでしまっている若者たちにとってみれば殺意が湧くぐらいなもんだろう。

恵まれている人は恵まれていることに気づけない。

育児が大変だというが、平日学校に来ている間はお姑さんが娘たちをみてくれていて、家にはお手伝いさんもいる。

私は日本の奥さんたちが基本ワンオペ育児どれだけたいへんかの話もしてやったことがある。

それでも彼女が私に自分がいかにたいへんか、私が自由で羨ましいかを言い続けるのは、まあ、ただ言いたいだけなんだなと思って聞いている。

ただ最近私が本当に苛ついてしまうのは「あなたが心配なの」って態度だ。

これ、昔そういう年上の女友だちがいた。

心配だといいながらも私に依存していたのは向こうだ。

そもそも相手を心配するというのは信頼していないってことだ。
私の友だちは「あんたなら大丈夫」と言ってくれる。

でも韓国女子にしてみれば私は大丈夫じゃない。
貯金もろくにないのに病気になったらどうするんだとか、旦那さんも家族もいなくて何かあったら誰が助けるんだとか、学歴も資格もなくてこの先年も取って誰に雇用してもらうんだとか言われる。

まあ、それでいうなら、私は貯金はないが、借金もないし、何より人が財産と思っていて、給料未払い銀行凍結なんてことで一時的にお金が0になっても、お金を貸してくれたり住むところを与えてくれたり食べ物をくれる人間関係がある。

だからそこまで困ったことがない。

旦那や家族がいなくても、それ以外の人たちから助けられてきた。私は「世界」にいつも助けられてる気がしていて、たとえ旅先でどうしようもない状況であっても、その場にいる誰か彼かが必ず助けてくれた。

だからそこまで困ったことがない。

あと学位が資格がとか言うけれど、そんなもんないのに成り行きで大学で先生やってる私のほうがすごいだろ笑

そもそも日本語教師だって、そうなるために学校も行ってなければ、資格も何もない状態で、数年前成り行きでなったのだ。むしろ資格はその後取得しているし、来た当初は中国語もろくに話せなかった。

私にとって、仕事を得るにはまず学位や資格というのも当てはまらない。

何か物事を成し遂げるためのルートは一つではないのだ。
手段や方法は様々だ。

しかし彼女にとってはお金がすべてを解決する手段で、価値観の基準がお金なのだ。まあお嬢様だから仕方ない。

しかし私はこれがあてはまらない。

自分の稼ぎが少なくても、人にごちそうしてもらうことで、自分じゃ入れない店に入って、普段食べれないものを食べたりしているし、海外に行くときも、誰かの手伝いをすることで旅費をタダにしてもらうとかで、お金がないから旅行に行けないというのも別にあてはまっていない。

きっと多くの人が目的と手段をはき違えている。
中国の学生も、したいことは何ですか?ほしいものはなんですか?と聞くと、「お金」と必ず答えるが、「じゃあ、それで何をしますか?」と言うとほとんどが答えられない。ただお金があれば幸せになれるし、ほしいものを買えるからだと言う。

「じゃあ、それは手段であって『ほしいもの』そのものではないんじゃない? 何を買いたいの?」

そう聞くと、途端に誰も答えられなくなる。

実際私は銀行凍結などの問題で、お金がなかったり使えなかった時期が何度かあるが、その時、食べ物を現物支給してもらったり、必要な物をもらったりしていたので、特に困っていない。

つまりここで必要だったのは「食べ物」でお金はそれを得るための手段の一つだったわけで、ほかの手段があればお金はなくても問題ない。

ただこれは、韓国女子には常識の範疇を超えることなので理解はできない。

ただし実際私は自分の経験や体験を通して言っているから、「そんなわけない」と言われても、「でも私はそう」と答えられる。

「あなたは普通じゃない」

こう言われても

「国が変われば常識も違う」

と私は言う。

「あなたの考え方はまるで古臭い老人のようだ」

私が言うと、彼女は困惑した顔をするが、根が素直なので「そうかもしれない」なんて言う。

ただ、彼女は混乱しているのだ。

だから「わからない」「なぜ」を連呼する。

あまりに言われるから批判されてる気がして

「そんなに理解できない私と一緒にご飯食べても楽しくないんじゃない?」

と言ったことがあるが、

「楽しい。私はあなたが好き。それに私の知らない世界を見せてくれる」

なんて言ってくる。

まるでお嬢様と路上の靴磨きの少年だ。

「あんた本当に何も知らねーお姫様だな。俺の世界の話なんてあんたとは無縁なんだろうから、ほっといてくれよ」

みたいな気分にもなる。

実際、私だって彼女が羨ましいところはある。

なんていうか、小さい頃から親や周りに大事にされてて、今も嫁ぎ先で旦那さんに溺愛され、何不自由ない生活をし、苦労知らずがそのまま見た目にも出ている。

はっきりいって苦労なんて乗り越えて糧になってこそ意味あるもので、そうじゃないなら、ただ健全に育つ部分が歪められて拗らせてめんどくさい人間になるだけだ。

いつか彼女は私に金網に巻き込まれて育った変形した桃の写真を見せてくれたことがある。

「この写真を見てあなたを思い出した。この桃はまるであなただ。桃だってきちんとした環境で育てば丸くなるのよ」

彼女に悪気はいつもない。
彼女も中国語がそこまで上手じゃないから本当に言いたいことは何なのかもよくわからないが、それは同情か励ましか……。

彼女は彼女で私にはわからない苦しみももしかしたらあるのかもしれない。

自分は幸せだとか愛されてるとか連呼するのがまず不思議なのだ。
まるで自分に言い聞かせているかのようだ。

それこそお嬢でエリートコースで生きてきて絶賛壁に体当たり中の友人はこう言う。

現役エリートバリキャリ女子

だから、私の人生や生き方を認められないんだと言う。

韓国女子は「あなたは自由で勇敢な女だ」といつも言う。

私よりもヨーロッパなど多くの国へ行ったことがある彼女なだが、意外なことに、2年前に私が暮らしてた瀬戸内海の島であちこち冒険していたことが羨ましいと言う。

彼女は知らないところに一人で行けないそうだ。

そんな人が留学とか、あと異国に嫁いだりすんの???と思ったけど、ガイドブックに載っていなくて公共機関もないような場所を探索することが苦手なのかもしれない。

今も、彼女はどこに行くにもタクシーだが、私は電動バイクだ。
これも彼女にとっては「すごいこと」らしい。
でも私にしてみたら、運転手と中国語でずっとおしゃべりできる彼女だってすごいじゃんと思う。

まあ、彼女が私のことが新鮮で興味があるのはよくわかる。
そして、私といる時間だけが自分が自由を感じられる時間だと言ってるのもまあ理解した。

彼女は私が好きだ。
彼女は私と一緒にごはんが食べたい。
彼女は私と話したい。

じゃあ「私は」????

いつのまにか彼女を主体にしていなかったか?

知らず知らず彼女に合わせていた。

彼女に悪気はない。
彼女は根はいい人だ。
彼女は善意でそう言っているだけだ。

じゃあ「私は」???

私はどうしたいのか。

距離を置くことも大事だと、私は初めてそう思った。

それは、私自身のために。

私と中国女子

私の学生の中で変わり者と呼ばれている中国女子がいる。
なぜ変わり者かと言うと、全寮制の大学においてほとんどがルームメイトと共に行動し、一人行動の機会がほとんどない中国であるにも関わらず、いつも一人でいるからだ。

確かに言動もちょっと風変わりなところはあるし、まあ簡単に言うと陰キャでコミュ症、人と接することが好きじゃない。

だけど、実は私はこういう子が嫌いではないし、基本陽キャとは言われるものの陰な面も持つ私は、一人のほうが楽だと思う彼女の気持ちもわかるのだ。

いつか彼女は作文の読書感想文に「人間失格」を選び、感想を書いてきた。話の内容はともかく、主人公の孤独はなぜか感じ取れたという内容だった。

その中で、高校時代の友だちに「あなたはどうしておしゃべりをしないの? 人と話すのは楽しくないの?」と言われたということも書いてあった。

その時の彼女は「用があれば話すよ」と答えたそうだが、その友だちには「あなたはきっと病気だ。病院に行ったほうがいい」と言われてしまったようだ。

人は自分の常識や価値観と合わない人間は「普通じゃない」と定義づけることで安心する面がある。私も何度言われたかわからない。実際今も韓国女子に言われている。

私が作文の感想として彼女に伝えたことは、

「あなたは病気じゃない。ただその友だちは、自分はおしゃべりが楽しいから、おしゃべりをしないあなたは楽しくないんじゃないかと思ったんじゃないかな」

ということだ。

彼女は食事もいつも一人で、この3年で彼女が唯一一緒に誰かと学食でごはんを食べたのは私だけだ。

実は私は韓国女子と一緒にご飯を食べるより、彼女と黙ってご飯を食べてるほうが楽しいとさえ思った。

彼女は彼女であるだけだ。
そして私が私であることに説教も干渉も特にしない。
それだけのことだが楽なのだ。

私と同じマンションに住んでいる韓国人の男の先生は、たぶんこの韓国女子が嫌いだ。いつのまにか私とも疎遠になってしまったが、前はよく私と一緒に二人でお茶を飲んだり散歩をしたりしていた。

この韓国人先生は、60代で独身で、結婚をしたこともなく、孤独と静寂の時間を愛する人だ。

韓国女子は、彼は一人で寂しいに違いないといつも言うし、毎日勉強で忙しい自分より暇で、きっと退屈に違いないと決めつけたように言う。

これに対して私は「そんなことないだろ」といつも言う。
内面の充足を重視することは私も大事にしていることだ。
だからこうして文章を打ちながら考えをまとめること、絵を描いて感情を昇華させること、あらゆる国の友だちとチャットで対話することは、多角的視点で物事を捉えたり、自分にとっては考えをさらに深めるための大事な時間だ。

しかし韓国女子は、絵を描いて何になるのか? 文章を書いて稼げるのか?とお金に繋がらなければ価値がないと思っているところがある。

そういえば今日も韓国女子は、「あの(韓国人)先生は私や韓国語の先生たちの食事会に参加したがらないし、一人がいいと言うわりには、たまに学校の活動に参加したりするから不思議。それに前にあなたたちと旅行に行ったこともあるのにどうして一人がいいのかしら」ということを言っていた。

「一人が好きなときもあれば、誰かと過ごしたいと思うこともあるだろうし、その誰かだって誰でもいいわけじゃなく選択しているのだろうし、私たちとも旅行してみたいと思ったけど、してみたらやはり一人がいいと思っただけのことで、別に不思議でもない。人はもっと複雑なんだよ」

と私が言うと、やっぱりまた「理解できない」と言う。

「あなたは簡単すぎる」私はこう言った。

常に親や先生に好かれるために努力してきた優等生な彼女だが、私に「先生に好かれて何かいいことあるの?」と言われると明確に答えることはできない。

おそらく親の言うことを素直に聞いて「こうすればほめられる」「こうするのが良いことだ」ということに忠実に生きてきたのだろう。

それと相反するのが中国女子の学生だ。
彼女はおそろしく不器用で、授業態度は人一倍熱心なわりには要領が悪くて成績が伸びない。私の作文試験では追試になっている。

それでも熱心なので、私は彼女のために時間を使う。
だから今日も、昼は韓国女子との食事を断って、ずっと中国女子の宿題を見ていた。内容がこの連休の日記だったが、連日、昔のテレビ版の「新世紀エヴァンゲリオン」を観ていたという内容だ。

日記には毎日「意味がわからない」と書いてある。「使徒とは何か」「結局どういう話なのか」などなど。

「まあ、あれは意味がわからなくても仕方ない部分もあるし、最近完結した映画版のほうがわかりやすいかも?」

なんてことを話していたら

「先生、でもあれは人と人との心の距離の取り方が難しいって話じゃないですか?」

と言ってきた。

「本当に、人と人との距離の取り方、難しいよね」

そんな話になった。

出会った頃はただただお互い無邪気に一緒にいることが楽しくて毎日会ってご飯を食べたりしていたのが、価値観の違いや混乱、意見の違い、相手に合わせすぎたり、気を遣い過ぎて自分を大切にできなくなっていたことでのストレスで、今は韓国女子に毎日会うことがしんどい。

嫌いじゃない。むしろ好きだから、完全に関係を切りたいわけじゃない。
彼女を悲しませたくないし、できればまた前みたいにお互い楽しく笑ってごはんが食べたい。

そのためにはエネルギーの充電が必要なのだ。
だからそのために距離を置く。

逆にこの中国女子はいつも一人なのだが、私と話すことや理解を得ることで新鮮な驚きを感じている。

韓国女子よりも一人の時間の大切さをよく知っている中国女子だからこそ、私は今自分が韓国女子に思っていることなど話してみた。そして、話せてよかったわなんて言っていた。

過去の同級生に「なぜあなたは話さないの?」とか「もっと自分の話をしてよ」と言われていた中国女子にとって、私の感謝は意外だったんだろう。目を丸くしていた。

そういや以前もそうだった。

前に、彼女が「私の趣味は医者の勉強です」と宿題の課題で答えたことがあった。

彼女はお父さんとおじいさんが漢方医で自分も漢方医になりたかったが、高校の成績が悪くてその道に進むことができなかったとのこと。
それでも休みの時にはおじいさんから漢方について教えてもらい、勉強していて、それが自分の趣味なのだという。

「そうか。もしかしたら、将来それで、自分の身近な人たちの助けになることがあるかもしれないね。その知識が役に立つこともあるかもしれない。あなたはあなたなりのやり方で、自分の夢をちがう形で実現させようとしてるんだね」

私は彼女は偉いと思った。
そういう夢の叶え方もあるのかもしれないなって思った。

あの時の彼女も自分が私に褒められたことに対して驚きながらも少し喜んでいた。

普段は一人が好きな彼女だが、人の交流から生まれる喜びも少し知ったのかもしれない。

しかしこの話を韓国女子にすると、「その学生は時間を無駄にしている。お金にならないことをやっても意味がない」だった。

この「時間の無駄」とか「あの人は暇だ」とか「時間を浪費してはいけない」とか「私は今日も忙しくて充実していた」は彼女の口癖だが、忙しいことがそんなに誇れることなのか?と私はいつも不思議になる。

それに、人生最後は死ぬことを思ったら、生きている時間はすべて無駄と言えるわけで、だからこそ、かの一休宗純、アニメではこまっしゃくれたとんち小僧な実際の一休さんは「有漏路より無漏路へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」という言葉を残している。人生はこの世からあの世へ行くまでの一休みにすぎないと。

自分が何に対して価値を感じるか、自分が心地よい状態は何か、選択は人それぞれのはずだ。

だけど私は今こうやって書き出して、だんだんこの韓国女子の表面化しない苦しみが少しだけわかってきた気がする。

「こうあるべきだ」「こうしたほうがいい」そうやって他人にあれこれ言う人は自分自身がその言葉にがんじがらめに縛られている。

中国女子は人にそこまで関心がないというか、自分を変えることもしなければ他人を変えることもしない。

どちらが楽に生きているかというと、中国女子のほうだろう。
韓国女子から見ればいつも一人で友だちのいない彼女は孤独に見えるのだろうし、連休をエヴァを観ることに費やした彼女の時間は無駄なのかもしれないし、医者の勉強をしても医師免許が取れて稼げるわけでもない彼女のやってることは意味もないのかもしれないが、敢えて比較をするならば、自分が自分のしたいことを選択し、そこに納得している中国女子のほうがストレスはないように思う。

そう、韓国女子は納得はしていないのだ。

だからこそ、納得を得るためにも私をどうにか自分が思う「よいこと」に導いて何とかしたいのかもしれない。

それは思いやりや優しさではない。相手をコントロールしようとするエゴだ。

自分を大切にすること

私が今中国で一番お世話になっている三年生の男子は、農村の星で努力家で、教育は可能性だと言いながら、日々夢や目標に向かって邁進する天晴な若者だ。

まあ気が強いし、自分にも他人にも厳しいし、言い方がきついので私とも何度か大きな喧嘩をしている。私にとっては身近で家族のような存在だ。

が、最近私が彼よりも仲良くしているのは彼の親友のほうである。
この親友の中国男子は、とてもおとなしくていつも微笑んでいる子だ。普段はほとんど話さないが、私が弱っている今など、ひっそりと寄り添ってくれるような優しい子だ。

そんな彼が農村の星の言葉に傷ついて悩んでいたというので、私はごはんに誘って話を聞いた。

農村の星は、日々のすさまじい努力から奨学金をもらう資格を得ているのだが、この中国男子にはそれがない。だから奨学金がもらえる農村の星を羨ましい気持ちがある。しかし農村の星は今回の奨学金が不服だったようで、その不満を毎日のように繰り返し何度も彼に言っていたらしい。

「何度も同じこと言われて嫌だったの? 自分はもらえないから悲しかったの?」

そう私は聞いた。

「それもありますが、一番嫌だったのは自分の弱さです」

彼はそう言った。

どういうことかというと、自分は本当は聞いていたくないのに、我慢してそれを言えなくて、それが自分自身の弱さと感じて落ち込んでしまったということだ。

ああ、今の私ならよくわかる。

私は一見自己主張が強いようでいて、実はそうでもない面もある。

特に、自分の友だちや好きな人に対しては極力合わせようとしてしまうところがあるのだ。

これは自分でも意外なことだが、本来きっと私はそうなのかもしれない。特に何とも思ってない相手や他人にはガンガン自己主張するわりには、嫌われたくない相手、或いは悲しませたくない相手などには、言いたいことを我慢してしまうところもある。

そのくせ我慢に我慢を重ねると、どかんと爆発してしまい、喧嘩別れなんてこともある。それもわかっているから、そうなる前に相手から離れるのだけど、結局それも0か100かみたいになって、程よく会うことや聞き流してうまくやることもできない。

しかしこの中国男子はその辺は私よりずっとバランスが取れているのか、結局その場で何も言えずに我慢した自分に嫌気は差したものの、自分なりにその気持ちは収めたようだ。

でも私はこう言った。

「君の場合は、言ってもきつくなりすぎることはないと思うし、自分の気持ちを伝えるということをもっとやってもいいんじゃないかな」

それは自分のためである。
自分が自分を守るため。

彼はそもそも農村の星が私にきつく言い過ぎて私がムカついている時に「先生に対してもっと優しい言い方をしたらどう?」と言ってくれる人だ。

私もそうだけど、人のことはそうやって庇ったり、その人の気持ちによりそってフォローしてあげたりできるのに、自分に対しては我慢してしまう。

だけど、そうやって自分はいいやと自分のことを後回しにすることに慣れてしまうと、だんだん自分の身内や近い人まで同じようにぞんざいに扱うことにもなりかねない。

そして自分の自分に対しての態度は他人の自分に対しての態度にもつながる。

「私なんてそんなもんだ」と謙遜してれば、自分自身も「やっぱり自分はこんなもんだ」と思ってしまうし、他人も「本人もそう言うんだしそうなのかもね」と同じように見て、そのように扱うだろう。

「私は全然いいよ、後でいいよ」なんて言い続ければ、「この人は後回しでもいいんだ」という認識を与えてしまう。

いつでも相手に合わせて我慢していれば、相手もそこに甘えて増長する。

いじめられている人を目撃すれば「おい、何やってんだ、やめろ!」ぐらいなことは私は言うけれど、自分が自分をいじめる自虐の時に自分を庇ったり守ったりしてあげたことはほとんどない。

他人がひっそり傷ついた時に中国男子にしているみたく、おいしいものを食べに行こうとか話を聞くよということを自分に対してやっていただろうか。

最近それを意識的にやるようにはしているが、他人に対してするよりも自分自身には難しい。

その日も中国男子はこう言った。

「先生は優しいですね。僕がずっと前に言ったことも覚えていてくれたり、落ち込んだことも気づいてくれる」

前に言ったことというのは、農村の星は別の日本人に二度も連れてきてもらった高級日本語料理店に一度も行ったことがないから行ってみたいと、この中国男子が言ったことだ。

それも自分に対してならどうだろう。
自分が前にやってみたいと思ったこと、食べてみたいと思っているもの
、したくないこと、したいこと、ちゃんと覚えていてやっているだろうか。

私は韓国女子と距離を置くことにどこか罪悪感がある。

私が一緒にごはんを食べなければ、彼女は大好きな教師食堂には行けない。私といる時だけが一番楽しい時間で、おなかが痛くても具合が悪くてもお昼ご飯一緒に食べる時間のために学校に来ると言った彼女ががっかりしてしまうのは胸が痛い。

だけど、だからって、自分が自分らしくいられない状態、おいしくごはんも食べられない状態、本当は毎日同じ食堂で同じようなもの食べたくないって気持ち、価値観が違うことで毎回「理解できない」とか「なんで」と連呼されることが煩わしい気持ちを良しとはできないのだ。

今、自分が一緒にいて居心地がいい人は誰か。

その時その時で自分の状態というのは違うし、人間関係は移ろうもの。

最近胃もたれするから焼肉屋はやめてお粥の店にしようとか、賑やかな居酒屋より落ち着いた店で静かに飲みたいとか、そういう選択を自分のためにすることは皆あるはずなのに、相手が人で、人間関係となると、気分でつきあう相手を変えるのは良くないと感じてしまうのはなぜだろう。

でも本当に今は一番身近だった農村の星の男子より、その親友で月のようにひっそりと優しい中国男子のほうが会話も弾むし、それこそ前述のいつも一人行動の中国女子と一緒にいるほうが落ち着くのだ。

正論で裁かれるのは嫌だし、価値観を押しつけられるのも嫌だし、それらを無自覚でやってくる相手には、そもそも話しても通じないし、そうなると、避けるしかなくなってくるのだけれど、それはそれで寂しくなってしまう自分のめんどくささ。

人との距離感難しい……。


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