生い立ち~母の育児~
あたしが育った環境は普通だと思っていたけれど、本当ははたから見てどうなんだろう。
そんなちょっとおかしな母の育児を紹介します。
・洗い物
あたしは4歳くらいから洗い物をしていた。
三人姉妹だから月木、火金、水土と当番が決まっていて、数十年たった今でもあたしは火曜日と金曜日の担当だったと覚えている。
日曜日は母が担当だった。
我が家は7人家族と人数が多いのに、大皿料理はなく、みんな小鉢などに分けられているから小さな食器をたくさん洗わなければならなかった。
包丁は危ないしまな板は大きいからと先に母が洗ってくれていて、残りをあたしは椅子に膝立ちして洗うのだ。冬でももちろん水を使わされていて、今から思えば油汚れなんて落ちていなかったんだろうと思う。
小さな手に料理のお皿は大きかったりしてよく食器を割ったりした。それでも母はその当番をやめさせることはなく、小学校卒業するくらいまでそれは続いた。
・毎朝のマラソン
小学校に上がるまえくらいに突然、毎朝マラソンをすることが日課になった。
一番上の姉が気管が弱かったのが原因とかで、それ以来毎朝三人と母で村の中を一周走るのだ。距離として約1㎞。
小学校に上がると「健康優良校」と表されるほどの学校だったため、そこでも毎朝マラソンがあるにも関わらず、母のマラソンは続いた。小雨くらいなら休むことはなく、暑くても雪が降っても走らされていた。
・毎週日曜日の掃除当番
よく学校の掃除用具入れにあるような円になっている当番表、それが我が家の居間にもあった。
1階部分のすべての掃除機、外の掃き掃除、門戸とそれに続く木の壁の拭き掃除。それを学校の当番のように毎週回転させてぐるぐるするのだ。
掃除機は広いので大変、掃き掃除は玄関までの通路だけなので一番楽、拭き掃除は冬なんかしもやけが染みて辛かった。
・おすそ分け
毎年母は、節分に寿司屋ですか?というほど巻きずしを巻いた。
そして村親戚と呼ばれる遠縁にあたるような家にその家の人数分をあたし達に持っていかせるのだ。
あたしは今でこそ人見知りのない人間だけれど、当時は引っ込み思案な村の人にあいさつも大きな声でできない子どもだった。そんなあたしは、姉たちよりも先に学校から帰宅するので、おすそ分けを配る人員にされてしまうのだ。
チャイムを鳴らす。家の人が出てきて何かを話したりして、変わりにお菓子を持って帰ってといわれお礼を告げて帰る。その一連の流れさえもあたしは苦痛でしかたなかった。
・おさがり
あたしには姉が2人もいるのだから、それだけでもおさがりはたくさんあった。2人は年子だからそれぞれ学校で使うものは新しいものを用意してもらえるけれど、あたしはほとんどおさがりで済ませられた。
習字セットは新しく買ってもらえたが、学校で合同で購入するのではなく、もう少しいいものを別で購入してくれるのが周りと違っていてとても嫌だった。
さらに洋服などは従妹のからおさがりをもらい、そのおさがりを姉たちが着てからさらにあたしが着るという、あたしグレてもいいですか?的な育て方をされていた。ただでさえ生きづらい母の監視のもとで生活しているのに、そんなあたしには楽しみなんてほとんどなかった。
・クリスマス
一番印象に残っているクリスマスプレゼントは、青い缶で今でも販売している「ニベアクリーム」だった。
そこに母の達筆な字で「〇〇ちゃん」と書かれていた。
子どもが欲しがりそうなりかちゃん人形やシルバニアファミリーなんてのは一度ももらったことがなく、毎年生活に役立つものがプレゼントだった。
ワクワクしながら眠るけれど、翌朝には少しがっかりするクリスマスだった。
・母の育児の結果
前述の``くらいとこ,,に続き、あたしはとにかく母の顔色をうかがって毎日生きてた。それは真ん中の姉も同じだといい、今の生活でも人の顔色をうかがってしまうから、とても気を遣って疲れるといっていた。
そう。無意識に顔色をうかがっているのだけれど、それはそれでとても気疲れしてしまい、無意識のうちにストレスとなっているのだ。
その代わり、人当たりが良いから嫌われることは少なく、どこに属しても慕ってもらえる得な性格でもある。
あたしはそのほかにも精神疾患をいくつも持っているが、それが全て母のせいだとは言えないが、少なくとも母が要因になってる病気もいくつかあると思っている。離人症については発症当時の環境で考えられることが母しかないので間違いないと思わざるを得ない。
夜蝶観音