死はなぜ恐い?
コロナ禍の中で、死をより身近に感じる人が増えた。
人は死を恐れる。
でも、なぜ死を恐れるのだろうかと、ふと疑問に思い、考えた。
そして思い至った答えは、死そのもよりも死後のことが恐いから、だ。
私は聖書を信じているため、聖書を土台として、人間やこの世界を理解している。
聖書によると、死の恐怖から自由とされている人間は誰ひとりいない。
みなどこかで死を恐れている。
ある人は、死なんて恐くないと言う。だけど、心のどこかに必ず死への恐怖心を持っている。
先ほど、死そのものよりも死後のことが恐いから、死を恐れるのだと私論を述べた。
聖書には、人は死後に神の裁きを受けると書かれている。俗に言う、最後の審判だ。中世の絵画などで観たことがある人が多いと思う。
そんなの神話でしょ、そもそも神なんていないし、さばきだってない、とある人は言う。
けれども、聖書によると、すべての人は神を知っていて、悪い行いに対する神のさばきがあることも知っているのだ。
これを聞くと驚かれるかもしれない。
しかし、はっきりと書かれている。
「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず」
「彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら」
つまり、神を知っているけど認めないのであり、さばきを知っているけれど認めないということだ。
知っているということは、神のさばきに対する恐怖も感じている。
その恐怖を消すために、人は死の現実から目をそむけようとして、忙しくしているのかもしれない。
「死んだら天国に行く」と言う人もいるが、その根拠は不明確だ。
「死んだら地獄だ」と受け入れている人もいる。
「死んだら生まれ変わるだけ」と言う人や、「死んだら宇宙の一部になるんだ」と言う人、「死んだら無になる」と言う人もいる。
だけど、その根拠はどこにもない。そう信じたいから信じているだけで、心のどこかでは、死後のさばきを知って恐れている。
この世に正しい人間なんて一人もいない。聖人君子だとある人をまつりあげたりするが、そんな人間は存在しない。
誰もが罪や汚さを持っている。過去の過ちから来る恥や罪悪感を抱えている。だから、自分は神にさばかれて、地獄に行くかもしれないという不安がある。
けれど、その恐怖心から解放される方法がひとつだけある。
それは、神の愛と赦しを受け入れること。
神が私たちを愛し、私たちの罪のためにキリストが身代りに死んでくださったことを信じること。
あなたが死の恐怖から自由になることを望むなら、あなたは神と向き合い、神と和解する必要がある。
ひとり子を与えるほどに世を愛された神は、あなたに語っておられる。
「恐れるな。わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」
神の愛は、私たちの心から恐怖を締め出し、喜びと希望と平安で満たす。
「神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。」