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【塾生通信#4】 来し方、行く末

はじめまして!薮中塾6期生の石川拓海です。
現在、大阪大学大学院人間科学研究科の修士2年で、教育社会学を専攻しています。特技はピアノで、サッカーとお酒が大好きな道産子です!

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なぜ薮中塾に入塾したのか

薮中塾との出会いは2月の公開イベント。友人が5期生の一人で、熱心に誘ってくれたのですが、その時の自分は「暇なので行くか」程度にしか認識していませんでした。

しかしいざイベントに足を運ぶと、何やら日本のこれからの社会について、僕と同世代の人たちが、僕の知らない国際情勢や政治の話も絡めて大いに議論。

ちょうどその頃は、インターンなどの活動から自分の学びの狭さに課題を感じたり、アウトプットの不足を実感する場面が多くなっていた時期でした。

そんな中での出会い。入塾しない理由はありませんでした。

このように、自分のモットーは「必要だと思った環境を自分で取りに行くこと」です。他にも、大学院の副専攻プログラム教育系の一般社団法人などで活動しています(アルバイトもこれまで10種類以上経験!笑)。

このように並べると訳わからないバイキング状態に見えますが、自分の中ではどれも必要でかけがえのない経験と考えています。

当然、薮中塾もその一つ。それはひとえに、
日本の教育、そして社会を変えるためなら、人生を賭けられる、と思っているからです。そのきっかけはこれまでの原体験にあります。少し長くなりますが、お付き合いください。

読む方によっては、これからの話は世間知らずの若者による上から目線の話に映るかもしれません。でもこれが今の正直な思いです(ご意見などありましたらぜひ届けてください!)。

「学校、教育」って何なんだろう?

話は中学・高校時代に遡ります。

自分で言うのもなんですが、当時の僕は勉強・スポーツが得意、ピアノも弾けてリーダーシップもある、といった学校で中心的な存在でした。
自分は何でもできると自信に溢れており、学校がとにかく大好きでした。

一方で、自分にはない個性や魅力を持っている友達や先生にも囲まれていました。
というのも、僕が通っていた学校は日本では珍しい公立の中高一貫校で、入試も学力選抜ではなく作文とグループディスカッション。

そのため、みんな学力も得意なことも進路もバラバラ。勉強ができなくてもどこか魅力に溢れている、とてもカラフルな学校でした。

そして卒業後に浪人を経験します。そこは偏差値至上主義の世界。バリバリの進学校に通っていたクラスメイトは、先生とは仲が良くないし、学校は勉強をするだけの場所で好きじゃないと言います。なかには偏差値が低い大学や人たちを見下すような態度を見せる人もいました。

頭がいい(そもそも頭がいいって何だ?)ことが偉い、という認識です(とはいえ僕自身もそのような価値観に陥りかけました)。

自分への自信と楽しい学校生活、そして周りの友達の点数では測れない魅力。偏差値至上主義の教育への疑問。当時の僕の中にはそうした感覚が混ざっており、学校教育や社会というものに違和感を感じていました。

学校、つまり環境によってその人の考えや価値観が変わる。そして、学校が好きか嫌いか、学校に認められるか否かで人生の行き先も変わるということも。

その頃から胸の内には、
「教育に携わりたい。教育が変われば社会も変わるのでは?」
という思いが醸成されていました。そして、その思いは大学生になって確信に変わります。

初めてのアルバイト先のしゃぶしゃぶ屋さんで出会ったのは、フリーターの方や、高校を退学になりかけのいわゆるおてんばなギャルの女の子。とても頭の回転も速く気が利き、大活躍していました。

しかし学校の話や将来の話になると、「いわゆる名門大」に通う自分と将来の見通しが違います。

「自分には学歴ないから大した人生は待っていない」「東北大とかすごいですね!私なんて退学なりかけですよ、羨ましいな」

返す言葉がありませんでした。学歴って何だ?それがあるのとないのでなぜここまで違うのか?自分より活躍している彼らが、学校や社会からの扱われ方が違うことにショックを受けました。

また、地域の学習塾でのバイトでは、子どもたちがいつも嫌そうに勉強していました。部活が終わって夜遅くから塾に来ます。しかし、この勉強は受験で順位つける以外に何の役に立つのかわからない、と子どもたちは口を揃えて言います。一体、この時間はなんの時間なんだろう?

教育というシステムは、特定の人の特定の能力だけを評価しているのではないか?そもそも勉強や学歴による一元的な評価って必要なのか?学校教育によって多くの人生を無駄にしていないか?そして自分はたまたま学校教育によって恩恵を受けただけなのではないか?

日本の教育は一体どうなっているのか。自分が納得するまで研究し、そして教育や社会を変えるような大人になりたい。そう決心し、大学3年生になるタイミングで、東北大学理学部を退学し、大阪大学人間科学部に編入しました。

「偉い」って何?

編入してからは、教育社会学を専攻し、上で述べたような教育システムと家庭環境・社会の構造の関連を研究しました。またそれだけではなく、実際に社会の多様な側面に触れ、感じ、考えることを重要視しました。

研究では実際に高校でフィールドワークを行い、教育実習では高校・幼稚園・特別支援学校に赴きました。そしてアルバイトでは、土木、飲食、医療、工場など、いろんな世界に足を踏み入らせてもらうことができました。

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(教育実習の時の写真)

そしてそうして経験を重ねるほど、自分の中で強固になっていく思いがあります。

世の中には「偉い人」なんかいない。そして「凄い人」ばかりであるということ。

保育士の友人は、給料も低いし大変だからすぐ結婚して辞めたいと言います。でも彼女らがいないと、世の中のお父さんお母さんは働くことができません。安心して子どもを産み育てることができません。社会を底から支えている立役者です。

今お世話になっているレストランの料理人とソムリエの先輩後輩。料理やお酒への知識やこだわり、技術は僕が今から学ぼうと思っても絶対に追いつきません。そして過酷な職場の中で、本当に美味しい料理を作り、お客様の一生の思い出を提供しています。

工事現場では、体格は普通なのに元アメフト部の僕よりも重い材木を軽々と運ぶ職人さん。週に二回の勤務でもしんどかったのに、先輩たちは週5フルタイム。「化け物か、この人ら」と感動したことを覚えています。

社会にとってどう考えても必要だからその職業があり、役割があります。そしてそうした世界は無数にあり、そこで活躍する姿も多様です。そのどれもに価値があり、比べようがありません。

それは一見当たり前なことです。でも、社会の見えないルールとして、社会と教育の連関したシステムとして、大卒で学歴のある僕らよりも、先にあげた業界は、給料や労働条件は整っていません。

「頭が良くてちゃんと勉強して、いい大学に行って偉いね。」と言われ続けた僕。

「大卒でいいな。今から働いても俺らより給料いいやん」「学歴ないからきつい」「給料低いから結婚して辞めたい」「将来の選択肢が少ない」と言う周りの大切な人たち。

僕は「偉い」のではなく「恵まれてきた」だけだと思っています。これまで生きてきた世界で、自分が興味を持って頑張ったことがたまたま評価される環境だっただけ。周りの方々と自分がどちらが偉いか、どちらが凄いかなんて説明できません。なのに目の前には、現実としてこうした状況がある。将来の選択肢の数も違います。

ですが、この社会に、この日本に、僕らが日々過ごしているこの生活圏に、社会の分断が存在しています。先に述べた人らだけでなく、これまで特別支援学校や児童養護施設にも関わってきました。修士論文の調査先の高校では毎年一定数の子らがドロプアウトし、その後の消息は誰もわかりません。

それって自己責任ですか?その人たちの意思で、その人だけでその人生が作られたのですか?

僕は北海道の田舎に過ごしながらも、両親共に教師だったので、世帯所得は日本の上位10%に入るでしょう。そして近くにはおばあちゃんがいて、いつも面倒をみてくれました。幼い頃からピアノを習い、水泳にも通い、長期休暇には塾にも通いました。学力選抜もない公立とはいえ、中学受験をし、本当に恵まれた学校生活を送りました。そして、周りの先生や塾の先生のサポートを得ながら大学受験をして旧帝大に合格。大学院にも進んでいます。

正直、僕はこれまで本当にがんばりました。でも、僕は本当に、自分だけの意志で、自分だけの力でこの人生を作ったのですか?どう考えても、生まれた環境、周りの人たちのサポートが十分にあったのではないでしょうか。

悔しいし、この状況をどうにか変えたい。

社会の中で、どんな生き方をしても、どんなポジションで働きいていても、理屈が通らないほどの不平等はあってはなりません。なぜなら全ての人が、その生き方に、一度しかないかけがえのない時間をかけているから。僕を含め誰もが、他の誰かのように生き、その人が全うしている役割を担うことはできません。

世界が優しく見える?

そのように気づいたことは、僕にとって良い影響を与えてくれました。
生きることが楽になり、楽しくなりました。

なぜなら、人と自分を比べる必要なんてなくなり、周りへのリスペクトを持てるようになったからです。その方にはどんなバックグラウンドがあり、どんな頑張りやこだわりがあり、その生き方をされているのか、少しではありますが透けて見えるようになりました。そしてそうすると、世界が優しく見えるようになりました。先日ご縁があった、株式会社アッテミーの代表の吉田さんという素敵な方も同様のことをおっしゃっていました。

「自分もいい大学を出て有名企業に入って、世の中に対して上から目線になっていた。けど、いろんな世界で懸命に生きている方々のことを知ると、そんな自分が恥ずかしくなった。そして周りのあらゆる人に対してリスペクトの目線が持てるようになってから、世界が優しく見えるようになった。それは自分に対しても。」

そんな吉田さんは、高卒就職の価値を高める事業会社を起業され精力的にご活動されています。

これからの人生の使い方

これまでの僕の思いとこれからの時間の使い方を代弁してくれている言葉があります。それは、東京大学名誉教授で女性学の第一人者である上野千鶴子先生が、平成31年度の東京大学入学式の祝辞で述べた言葉です。

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。‥‥しかし、がんばったら報われると思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、‥‥周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われない人、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひとたちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。‥‥あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。
(一部抜粋、筆者により編集あり。原文はこちら

これまでは自分が学ぶことを重視し、積極的にインプットし考えを醸成してきました。一方で、アウトプットを行ったり行動に移して実際に社会に働きかけることは怠っていました。

しかし、就活を経て自分の生き方について向き合った結果、「自分が何者であるか」や「自分の持っているリソースは何か」など考えずに、がむしゃらにできることをしていく、と覚悟を決めました。今後は日本の雇用を支える人材支援の企業で働き、また最近自分でアクションを取って参画した一般社団法人HASSYADAI .socialで、素敵な仲間たちと日本の若者たちをエンパワーする活動をしていくことになりました。

薮中塾を通してなりたい自分

そんな自分が、薮中塾を経てどうなりたいのか。約3ヶ月の活動から見えてきたものがあります。

まず自分には世の中についての知識がまだまだ足りないことに気づきました。これまで安全保障や中東問題、社会保障について勉強を重ねてきましたが、これまで日本の社会について研究してきた自分に知らないことばかりでした。

そして何よりも、あらゆる領域にいるあらゆる立場の人にも伝わるアウトプットの力を身に付け、自分の考えや思いを論理と情理に乗せ、行動に移し、社会を動かしていく人間になることが最大の目標です。それは入塾した理由と変わりません。

そして、この塾のメンバー全員が同じ課題を抱えていることにも気づきました。自分は6期生の中では年上の部類なので、塾の内外にシナジーを形成し、互いに成長できる環境を作っていくことも意識していかなければならないと感じています。

自分の周りにいる人たちがもっと認められ、もっと選択肢を持ち、豊かに暮らせるように。みんなが自分の理想の社会を責任を持って作っていけるように。

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(大好きなレストランの仲間たち)

以上、お付き合い頂きありがとうございました。

薮中塾6期生 石川拓海

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