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ハッピーエンドの行先は

何かで読んだ文章の中に、「映画で見た、花嫁を連れ去ってバスに乗って駆け落ちして、すごく幸せだったふたりは、最後の一瞬、すごく悲しそうな顔をしていたの。」というを遠い昔に読んだ。その会話は500冊を先日越えた私の蔵書の中で息をしているのだろう。

あの会話を読んだ時、私は初めて、ハッピーエンドの後を考えるようになったのだ。ハッピーエンドの小説を読んだ後にそんなことを考えるのはしないけれど、答えが濁されていたり、意味深だったりすると、布団の中でひとりで考えたり、してしまうのだ。

角田光代さんの「太陽と毒グモ」は、普通の小説だったら「叶うまで」を書く作品の「叶ったあと」つまり、「ハッピーエンドの行先」を書いた作品である。

優しくて、笑った顔が愛おしくて、価値観が似ていて、でも、微かに生じる違和感がある恋人。夕食の魚の小骨のようなそれは、朝を迎えても喉を過ぎることはなく、隣で眠っているのだ。

11作からなる本作で描かれるその違和感は11通りである。

買い物依存症、風呂嫌い、万引き常習犯、迷信好き、野球好き、過度なおしゃべり、などなど。

読み始めは愉快なのである。えー、こんな人恋人だったらどうしよう、許せないかも。あ、これはイケるかも、あーでもなあ。うーん。といった感じで、ちょっと楽しい。

けれど少しずつ、変な恋人を持つ主人公たちは、気付く。

絶対に許せないことに、
解決法があることに、
許容方法があることに、
許せないけれど離れられないことに、
許そうとしたのに離れていたことに。

その気付きの度、私はキュッと胸が切なくなった。彼らの「叶うまで」は知らない。けれど彼らが「愛している」ことはわかるからだ。

愛していても許せないことがあって、愛しているから許せないことがある。

読みながら私は、私だ、と思っていた。この中にいるのは私だ、と。
ふつりふつりと過去が私の体を泡立てて叫ぶ、これは私だ、と。

角田光代は自己投影させる天才だと思う。

初めて角田光代を読んだ「八日目の蝉」では、小学生だった私の僅かな母性が掻き立てられ、とんでもなく苦しくなって、私も好きな人の子どもを誘拐してしまうんじゃないか、と本気で思った。
初めて買った角田光代の作品「愛がなんだ」では、存在しないマモちゃんのことを好きになっていて、成田凌に恋をして、勝手に失恋をして、いまだに読み返せずにいる。私の失恋話を自分で読んでいるような気がするしてしまうのだ。

だから角田光代は気軽に読むことができない。
向こうの世界に引きずられ、突き落とされ、私がこっちに戻る頃には、すっかり陽は沈んでいる。

だから、許せない彼らにすごく共感して、苦しんで、そして、角田光代の作品で初めて「これは、もう一度読もう」と思った。

相手の許せないところ、と言うのは、八割くらいの確率で自分のコンプレックスが関係している、と私は思う。

だから、もう少しコンプレックスがなくなって、もう少し大人になれたら、この本を読んで、心の底から「楽しい」と思える日が来るんじゃないかーーー。そう期待して、本を閉じた。

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矢原小春
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