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ファイトクラブの感想と浅倉透【殴打、その他の夢について】

ファイトクラブという映画を観ました。
浅倉透がこの映画を観ているらしく(公式設定)、ずっと気になっていた作品でした。
この記事では最低限のネタバレに留めつつ、ファイトクラブの感想を書いたり、浅倉透のコミュとファイトクラブの関連性に触れたりしていきます。

あらすじ

不眠症に悩む主人公は睾丸ガン患者の自助グループ(病人同志で慰めあう会、アベンジャーズ:エンドゲームでキャプテンアメリカがやってたやつ)で告白を聞くことで安らぎを得ていた。
しかしある日、タイラーという名の男と出会ったことで彼の人生は一変する。家を失い、タイラーの家に転がり込んだ彼は、タイラーと『ファイトクラブ』という喧嘩を行うための場所を立ち上げる。
不眠に悩まされるような繊細さを持っていた彼は、喧嘩という暴力性に魅入られていく。やがて喧嘩をする場所だったファイトクラブが変質し始めた時、彼は徐々に違和感を覚えだす……。

〇感想

人間の抱える暴力性をテーマとした作品。
社会の抑圧や退屈からの解放を望む男たちは、暴力という麻薬に魅入られ中毒になっていく。
道徳規範から解き放たれ、破壊活動がもたらす快楽と、軍隊的社会規範による所属欲求の充足によって彼らの倫理観は塗り替えられていく。その破壊的な在り様は見るものに爽快感をもたらし、同時に恐怖を覚えさせる。
作中一貫して(ある程度は)理性的であった主人公を嘲笑うかのように拡大していく暴力。それは決して暴力賛美などではなく、暴力性のおぞましさを見る者に突きつけているかのようだった。

一方で、調べてみるとマッチョイズムの映画という意見もチラホラ見かける。これは全くの的外れとも取れないが、しかしこの映画の本質とはかけ離れているのではないかと自分は考える。

〇すべてを失ったものだけが本当の自由を知る

家、財産を失った主人公にタイラーが放ったセリフ。
ファイトクラブを通じて解放と自由を手に入れていった男たちは、メイヘム計画によって望んで不自由を求めるようになる。兵隊たる彼らはルールの下で行動し、タイラーや主人公もまたその立場に縛られる。
結局本質的な自由などは存在せず、人は皆社会的制約の下でしか生きることが出来ないのだ。窮屈な社会規範の破壊を目論んだメイヘム計画の男たちが何よりも不自由だったというのは皮肉な話である。

〇浅倉透とファイトクラブ

正直自分の解釈だけでは「殴打、その他の夢について」との関連性について消化できなかったので、他の人のnoteなどを読んだ上での自分なりの解釈を書き連ねていく。

透はコミュ内において写真撮影におけるカメラマンと被写体の関係性を暴力、殴り合いとなぞらえる。
写真撮影とは瞬間を切り取る行為である。その瞬間に写し出されるものは世界をそのまま切り取った真実であり、そこにはありのままの美醜が表れる。
雛菜のような可愛い・美しい存在が写し出された時、写真は見る者にとっての暴力となる。
美しいものを見たときの比喩表現として「殴られたような衝撃」というものがあるが、正しくそのような暴力であると同時に、或いは見る者によってはそれにコンプレックスを抱き、自身の喪失や嫉妬に繋がることもあるかもしれない。それもまた暴力性と言えるだろう。

「写像2」のコミュにある同級生や先生を写した写真は、被写体にとっての暴力だ。瞬間を切り取っている写真は、時に困惑や怒り──即ち美しさという観点から物事を見たときに被写体として万全ではない状態を写し出してしまう。動作に伴う躍動感を写しているならともかく、透は顔しか写していないのだから尚更である。
そういったものを写し、仲間内で揶揄するといった行為に暴力性があるといったら、否定はできないだろう。

浅倉透はそこに暴力を、そしてその暴力性に閉塞からの解放、自由を見出した。
名前の知らないクラスメイトも、口うるさい先生も、写真の中に収めてしまえば抵抗する術を持たない。同時に、雛菜という美しいものを写すことで自らをもまた暴力性にさらけ出し、その身に眠る衝動を駆り立てる。
これこそが「殴打、その他の夢について」で描いていることなのではないだろうか。


自分は浅倉透のコミュを全部読んでいるわけではなく、読んでいるものも記憶が曖昧だったりするので見当外れのことを言っている可能性もありますが、この二つの作品から導ける自分なりの解釈が以上となります。話半分で読んでいただければ。

ファイトクラブ、面白かったのでまだ見てない人は是非。
アマプラで吹き替え版が配信してます。

参考にした記事↓


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