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【エッセイ】「ブラザ—軒」雑感

 演奏中に酔って寝てしまうなど、酒を中心に数々の逸話を持ち「酒仙歌手」とも呼ばれた高田渡は、山之口貘や金子光晴、黒田三郎などの現代詩人の詩をとりあげたことでも知られている。
 「ブラザー軒」もその一つ。菅原克己の詩をもとにしたこの曲、小室等をして号泣したと言わせたり、南こうせつがカバーをしたり、というなかなかの名曲だ。
 詩はご存じのように、「ぼく」が七夕の夜に洋食屋のブラザ—軒を訪れると、亡くなった父と妹がそこに現れるという内容だ。父と妹は幸せだったころのままの姿をしているが、現在の「ぼく」は目の前のふたりと交流できない。
 この詩が発表されたのは『生活と文学』昭和三一年八月号だ。その後、昭和三三年出版の第二詩集『日の底』に収められる。
 昭和三一年に書かれた詩なのだが、舞台となっている「ブラザ—軒」の様子はどうも大正一一年あたりのものらしい。というのも、詩に描かれた「おやじ」は大正一二年の一月、克己が一二才の時に亡くなっている。その後、一家は仙台から東京に移住する。
 そして、「死んだ妹」のモデルと考えられるみどりは大正八年に生まれているので、大正十一年には三歳、まさにこの詩の情景とぴったりな年格好だ。
 この頃、克己も十一歳だった。まだ元気だった父や家族と幸せに過ごした仙台の思い出は、彼にとって大切なベースとなるものだった。
 みどりは、昭和二六年五月に若くして亡くなっている。五年という時間をかけて昇華していった妹への思いと、幸せだったころの家族の記憶とが重ねあわされ、仙台を舞台とすることでこの詩が生まれた。
 ちなみに、仙台の七夕祭りが今のように活気に満ちるのは昭和に入ってからだ。大正末期の頃は、華やかなものではなく、寂しいものだったようだ。だからこそ、「濃藍色のたなばたの夜」と「硝子簾がキラキラ波う」つ店内との対比が際立つ。硝子簾の向こうに広がる闇の世界は懐かしさに満ちたものだったのかもしれない。

   

 ブラザ—軒 菅原克己


 東一番丁、
 ブラザ—軒。
 硝子簾がキラキラ波うち、
 あたりいちめん氷を噛む音。
 死んだおやじが入ってくる。
 死んだ妹をつれて
 氷水喰べに、
 ぼくのわきへ。
 色あせたメリンスの着物。
 おできいっぱいつけた妹。
 ミルクセーキの音に、
 びっくりしながら
 細い脛だして
 椅子にずり上る。
 外は濃藍色のたなばたの夜。
 肥ったおやじは
 小さい妹をながめ、
 満足気に氷を噛み、
 ひげを拭く。
 妹は匙ですくう
 白い氷のかけら。
 ぼくも噛む
 白い氷のかけら。
 ふたりには声がない。
 ふたりにはぼくが見えない。
 おやじはひげを拭く。
 妹は氷をこぼす。
 簾はキラキラ、
 風鈴の音、
 あたりいちめん氷を噛む音。
 死者ふたり、
 つれだって帰る、
 ぼくの前を。
 小さい妹がさきに立ち、
 おやじはゆったりと。
 東一番丁、
 ブラザ—軒。
 たなばたの夜。
 キラキラ波うつ
 硝子簾の向こうの闇に。

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