【エッセイ】見ること、気づくこと
灯台
灯台のあかりは
何かを照らそうとしているわけではない
暗い海の上に光が向けられていても
船を照らし出すことはない
ひと晩中ともしているのは
わたしはここにいるという訴えだ
その光っているひとみは
しかし
応えを見られない
気づいているよと
誰かが応えていても
それを知ることはない
それでも
灯台はひと晩中
あかりをともし続けている
わたしはここにいる、と
夜明けの陽が届き
ぬくもりを感じたとき
ようやく安心して眼を閉じる
たしかにわたしはここにいる、と
能登半島の先端に狼煙という地がある。古くからの海上交通の要衝であり、航海の安全のため航路を示す狼煙をあげていた(あるいは灯明を掲げていた)という由来があるらしい。暗いうちに漁場に向かう漁船だったり、北からの荷を積み航海を続ける北前船だったり、多くの船がこの「狼煙」を心強い頼みにしていた。
その狼煙町の禄剛崎に今も灯台がある。禄剛崎灯台、またの名を狼煙の灯台ともいう。明治16年につくられた石造りの灯台だ。さほど大きくはないのだけれど、切り立った崖の上にあるためずいぶん遠くまで見通せる。崖下の「千畳敷」と呼ばれる海食棚や幾色にも塗り分けられた海の色などと一緒になって、この灯台は魅力的な白い姿を見せている。
11月のある日、ぼくは200キロほど離れたこの灯台に向け、ひとりでバイクを走らせた。海からはじまる日の出が見たいと思ったのだ。
能登半島の西の付け根、千里浜から沿岸部を走る。名所だったり名所でなかったりするあちこちで気ままにバイクを停め、能登の透き通った景色を楽しむ。
秋の終わろうというころだから風は冷たい。人も少ない。輪島を過ぎてからの能登北岸は対向車もあまりなく、海沿いの道を淡々と走るだけ。風に立つ波、すっきりと青い空、そして遠く流れていく雲。そんな風景を楽しみながら狼煙に着き、ゲストハウスに宿を取った。
朝5時30分、ぼんやりと明るくなってきた道を灯台に向かう。10分ほどの山道を歩いているうちに、遠くまで海が見えるようになってきた。日の出は近い。芝生の広場につくと、朝日を期待したひとたちが何人も海を眺めていた。
灯台はまだ動き続けている。
ゆっくりと回転するその光は、さほどまぶしくはない。サーチライトのように何かを照らし出すほどの光量はない。灯台の光は何かを探したり、照らしたりするためにあるのではなく、遠い海上を行く船に自分の場所を告げるためだけにあると、そのとき気づいた。
海上に光を投げながら、しかし、船がそこにいるかどうかを灯台は知らない。光に気づいた船がその光に返信してくることもない。応えのもらえない呼びかけを、いるかどうかもわからない相手に向けて一晩中繰り返している灯台。
見返りはない。何かを達成したという証しもない。この繰り返しに、意味があるのか無いのか、だれも反応してくれないから自分ではわからない。ただ、明るくなるまで続けるだけ。
水平線のあたり、低く立て込めた雲のカーテンの上から朝焼けが始まってきた。明るさを増してくる海と空にかこまれた灯台は、その姿がもうはっきりと見える、その灯よりもはっきりと。
灯はまだともっている。と、静かに回転がとまり明かりが消えた。灯台は、朝日に照らされてようやく眠りについたようだ。きっと、そのぬくもりに救われて。
(『詩人会議』2022年11月号)
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