わかるからこそ聞こえてくる音がある
ことばってどういうものだろう?ことばを話して、または書いて、人に理解してもらう時に何が起こるんだろう?
そんなことを考えて考えて考えているうちに、なかなか上手くまとまらず、しばらくちゃんとした記事の更新ができずにいました。
私の中で事件が起こったのが、7月16日。
でも、その前に、私がいつもどんなことをしているのか、説明しないと理解してもらえないと思う。
私は、ヒッポファミリークラブのメンバーで、多言語の自然獲得の実験と実践をしている。「人間は環境があれば、何語でも何カ国語でも話せるようになる」ということを自分の体を使って実験しているのだ。
具体的には、家でも車の中でも、可能ならその他の移動の時にも、色んな言語で同じストーリーが録音された音源をランダムに聞いている。
聞いていると言っても、家の中の何箇所かで一日中流れているものは、意識的に聞いているわけではなく、BGMのように流れていて、たまに意識するレベルだ。
そして、一人で運転している時など、気が向いたらシャドーイングのように聞こえてきた音をそのまま口に出して真似して言っている。
基本的には週一回のメンバーが集まる場では、音源を流して、みんながそれぞれ聞こえたままに、歌うように真似している。
そんなことを繰り返していると、音源なしでも言える部分ができてくる。
そんなふうにして何となく音源無しで言える2分ほどの、通称「バス」の場面の韓国語。
内容としては、アメリカの高校に留学したイチローが、初めてスクールバスに乗り登校する時、隣に座ったマークと話をする場面のお話だ。
そして、運命の7月16日。
最近、音源無しでストーリーを言ってみる機会が減ってるなと思って、ふとシャワーを浴びながら、韓国語のストーリーの1場面を1人でぶつぶつ言ってみた。
そしたら、今までずっと「キモニヤ」と聞こえていて意味がわからなかった部分が、なぜだか急に「ティモニヤ」と言ってたんだとわかって、日本語に直訳?すると、「チーム員だよ」と言ってたんだ!!!とわかった。
そして確認してみたくて、韓国語の音源を聞いたら、やはり「ティモニヤ」と言っていた。
同じストーリーの日本語音源もあるのだが、日本語を聞く機会は圧倒的に少ないので、その部分を日本語で何と言っているのかは、思い出せない。
でも、確実に言えるのは、チーム員なんて不自然な日本語は使ってはいないだろうということ。
だいたいのストーリーの流れはわかっていて、その部分は、マークが自分はサッカーチームに入ってるから、よかったら放課後練習を見にこない?とイチローを誘い、同じバスの後ろの方に座ってるサンウという韓国からの留学生も同じチームだから、後で紹介するねと言っている場面だ。
ティムウォン(チーム員)に、イヤ(だよ)がくっついて、ティムウォンイヤが繋がって聞こえて、カタカナで表すと、ティモニヤ(ティムォニヤ)っていうことも、一瞬にして分かる。
ティムウォンという単語を勉強して分かるようになった訳ではなく、そんな単語が本当にあるかどうかさえ知らない。
たぶん頭の中で、会社員とか公務員の「員」の音、「ウォン」と同じ音だよなっていうのがなんとなくあって、今まで「キ」と聞こえていた音を意味のある音にしようと、勝手に補正されて、「ティ」になったのかな?
そうなると、もう何回音源を聞き直しても、「キモニヤ」とは聞こえず、「ティムォニヤ」としか聞こえない。
今回は、たまたま分からない部分が少なくなった韓国語の中で「キモニヤ」ってなんだろう?ってなんとなく疑問に思っていたことが解決されたので、大事件のように思ったけど、今まで無数に同じような事が頭の中で起こって、韓国語がわかるようになってきたんだろうな。
思えば、最初韓国語を聞き始めたとき、カバの男の子が、自分探しの旅に出るお話で、「ナヌン モーヤ?」(ぼくはなぁに?)の音が、カタカナで表すと、「ナヌン モーヤ」「ダヌン ボーヤ」「ダニン ブーヤ」という感じに聞くたびに様々な音に聞こえて、本当はなんて言ってるんだろう?と思ったものだった。
子どもが、「死ぬ」が「シム」じゃなくて「シヌ」だとわかっていくように、「寒い」が「タムイ」でも「チャムイ」でもなく「サムイ」と分かっていくように、だんだん周りの人が話している音に近づいていくのかな。
同じように多言語の音源を聞き続けていると、だんだんと聞こえるようになっていくんだな。
「巨人の星」の主題歌は「重いコンダラ」ではなく「思いこんだら」、「ふるさと」は「うさぎ美味し」ではなく「うさぎ追いし」、「アルプス一万尺、子山羊の上で」ではなく「アルプス一万尺、小槍の上で」。自分でわかるかどうかはともかく、変だな?って思ってると、わかる日は来るよね。
関西弁をテレビなどでも聞く機会が多くなって、「箸」「橋」「端」のアクセントが自分とは違ったとしても、関西弁のリズムとメロディのなかで、そして文脈で、みんな理解できるようになってるんじゃないかな?
そんなふうにして、わかったことは、忘れることが無いよね。
こんなことが自分の身に起こって、本当に楽しいので、自然習得の実験は、止めることができないのかな。