我々は、自らが熟考しているものになる
「我々は、自らが熟考しているものになる。」
古代ギリシャの哲学者 プラトンの格言です。
人は皆、自分自身で限界を創り出しております。
意識して創り出しているというよりも、環境などの外的な影響を受けたりなど、知らず知らずのうちに創り出されているような気がします。
偉人と呼ばれるような方々の話になると、「別世界の人」という括り方で、自分とは違うという解釈で落ち着かせてしまいます。
自分自身が作り出している「限界」が、「自分の世界」と「別の世界」の境界線となっているのではないでしょうか。
「自らが熟考しているもの」が、「限界」という枠の中のものであれば、それなりのものになってしまうような気がしおります。
「熟考」する前に、「限界」を壊す必要があるのではないと感じておりますが。。。
「世の中はこうだから。。。」
「常識的に考えて。。。」
誰がどのような理由で決めたのかすら、わかり得ない「世の中の常識」は、とても厄介である。
ある程度、その常識に則って進めて行かなければいけないことは、沢山ある。
それでも、その「常識」と呼ばれる枠の中で物事を考えると、見えないこと、わからないことがある。
「常識だから」を理由に思考が停止すると、見える筈のものが見えず、わかる筈のことがわからず終わってしまう。
終わった地点が、「限界」なのではないだろうか。
「承認欲求」
人間は、例外なく、この欲求があると確信している。
他人に認められたいという気持ちが、「限界」を創り出している側面もあるように思う。
色々なことを考えるとき、「限界」があると実感することがる。
あくまでも、自分で創り出している「限界」でしかない。
故に、まずは、自分が創り出している「限界」を知る必要がある。
どんなところで、思考が止まるのだろう。
どの段階まで、思考がスムーズに進むのだろう。
そんなことを意識してると、何となくでも、自分が考える「限界」が見えてきたりする。
「限界」は、必ず「ブレーキ」として作用する。
良い結果を導くとは言い難い。
自分の限界を広げたとしても、他人にブレーキを踏まれることもある。
「そんなの無理でしょう。」
「本気で言ってるの?」
そんなニュアンスのリアクションが、「限界」を創り出す要素として作用する。
「限界」を捨てて、熟考してみる。
熟考して得たイメージが、「自らが熟考しているもの」なのだと確信している。
この名言により、まだまだ「限界」を創り出している自分を憂いながら、熟考したものを目指し続けて行こうと思わされた。
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