修験行者場「伊勢山上」で得たものは
今日は、登山仲間3人で三重県松阪市の山奥にある飯福田寺の修験行者場、通称「伊勢山上」に登山、いや修験に行った。
まずは、お寺で入山料を収めて行者場に向かうと、「油こぼし」という断崖絶壁がいきなり登場する。HPには、「垂直の断崖を鎖のみで上っていきます。命綱はなく自分の力で登っていくしかありません。迂回路なし。ここを登らないと行場を1周することができません。」と書いてあった。これ、今見たからよかったけど、事前に見ていたら、きっとビビってちょっと憂鬱だったかもしれない。
私が登る番がやってきた。上を見あげても、下を振り返っても怖いので、目線は足下に集中させてみた。そうすると、不思議と怖さが消えていき、集中している自分に気づく。一歩ずつ、着実に踏み出していく。そして、第一関門をクリアすることが出来た。
これって、マインドフルネス状態ことか。未来や過去にとらわれず、「いまここ」に生きていたよ。さっきの私。その状態、その感覚には、辛さや恐怖はなく、何かわき上がる快感が確かにあったよね。
そんなことを感じながら歩いていると、次の試練がやってきた。ここは迂回ルートもあり、自分で選択が出来る。ここではすんなり迂回ルートを選んだ。
ここは格好つけるところではない、自分の力では太刀打ち出来そうでないところは、パスでよいのだよ。
迂回ルートも優しい道ではなく、這いつくばりながらようやく尾根に抜ける。尾根歩き、めちゃ気持ちいい。登山仲間のTさんが「尾根が気持ちいいのもさっきの試練があったからかもね」という。人生も同じかも。平坦な道ばかりだと、その有り難さも、心地よさも忘れてしまうし、退屈だ。今日のようなスリルのような香辛料も人生には必要だ。
私たちはいつもより言葉少なめに尾根を歩いた。山で辛い時に、仕事の愚痴を言って紛らすことも多いが、今日はなぜだかそんな言葉は誰からもでてこなかった。「いまここ」にいれば、そんな些細ことは既にどうでもよいことになってたのかもしれない。
いくつかの小さい試練を越えて、最後の難所、絶壁の下りがやってきた。
足下を見たいのだが、絶壁すぎて視界に入らない。怖いけど、今回はやってみたかった。滑稽な体勢になりながらも、Tさんの献身なサポートでなんとか降りるとができた。降りきった時、両手の指先は恐怖で細かく震えていた。
恐怖心からは解放されていたのだが、その震えは「私は怖かったのよ!」と手が私に訴えているようだった。鎖から決して離れることなく、私を守ってくれた手よ、ありがとう。
山寺に向かう階段を降りて、下界に戻ってきた。
今回の修験行場で得たこと、感じたことはこんな感じだろうか。
•怖さは「いまここ」ではなく、未来や過去にあること。
•今の自分の声を大切にすること。
•試練があることで、喜びを深く味わうことができること。
•がんばった身体は感謝とねぎらいを。
この感覚を取り戻したくなった頃にまた来よう。
今、ふと思ったのだが、ここは本当の自分をさらけ出す場でもあった気がする。格好つけたら死んじゃうし。自分をさらけ出したい人と一緒に来るのもいいかもしれない。