最近はまった漫画〜アオのハコ
アニメを見たのがきっかけで、漫画『アオのハコ』にはまった。もともと高校を舞台にした作品が好きだということを、最近改めて自覚した。ここ数年のことを考えても、『ホリミヤ』と『スキップとローファー』、『その着せ替え人形は恋をする』(厳密には学園ものではないかもしれないが、文化祭の話はかなり印象的だった)、それから『正反対な君と僕』を夢中になって読んでいるし、今年公開された映画をきっかけに『ハイキュ-!!』にもはまった。夏ドラマでは『素晴らしき哉、先生!』を意外と感動して見ていた。スポーツものというか、部活動ものも好きなのだと思う。そういう意味では『アオのハコ』はストライクなのだが、はまって感動しているだけではなく、読んでいると妙に胸がざわついたりもするのだ。何かが私の心の深いところを動かすのである。
私は、はまると何回も何回も読んでしまうのだが、この前『アオのハコ』を読み直しているとき、千春が「大喜っ がんばれっ」と叫ぶコマを読み終わった後、偶然なのだが前回の投稿で語ったズーカラデルの「イエス」が流れ、「羽は未だ無いけれど 俺は行かなきゃ ほらイエスと言え」という歌詞を聞いた瞬間、号泣してしまっていた。本当に急に涙がボロボロ出てきたのだ。
考えてみると『アオのハコ』のテーマは何なのだろう。部活ものなのかもしれないが、例えば高校バドミントンの話にしては不十分である。団体戦の描写もないし、新人戦や全国選抜も大切な大会なのに全く無視されている。バスケットのウィンターカップはあるのに。作者はバドミントン経験者のようなので、知らないわけではなく、意識的に描かれていないのだろう。恋愛ものなのかもしれないが、その要素が最も強いのかもしれないが、それだけではないような気がしている。登場人物たちの結びつきは、たとえ恋人同士であっても、ただの恋愛関係ではないような気がするのだ。作者は単行本15巻の終わりに作者が書いていることが興味深い。
「この漫画では 目標に向かって頑張っている人を描いているのですが 目標がなくても全然いいと思っていて それだけを正解とはしたくないと思っていて 自由に好きなように、人様に迷惑かけなければそれでいいと思っています」
「下手に年齢を重ねて思うのは 綺麗で真っ白なものより 恥や傷を負っているものの方がかっこいいなって」
夢や目標に向かって一直線に進んでいく、とか、高校生の頃の純粋な理想的な恋愛を描く、というものでもない。どこかに若さの不穏さや危うさすら漂うような作品になっているのは、作者の中に、どこか型にはまった少年漫画(ジャンプに連載中である)としては描ききれない相反する感情があるからなのだと思った。
作中に「同志」という言葉が結構出てくる。大喜と千夏は恋人関係である前に、まずはインターハイ出場という同じ目標を持つ同志同士(ちょっと面白い言葉のつながり)なのだ。「同志」という言葉は、今はあまり聞かなくなった言葉だからこそ、印象深い。同じ志を持つ者。ある意味、家族や恋人、友達(親友)よりも、より自分の魂に近いところにいる他人。一人でいい。自分の人生に一人でもいてくれたならば、それだけで人生は生きるに値するものになるのではないか。そんな大げさなことを言いたくなるような存在のような気がする。『アオのハコ』では、そのような同志の二人が恋人同士になるのだから、それはそれはうらやましい限りだ。どのような結末が待つのかは分からないが、そこは少年漫画らしく?ハッピーエンドを目指してほしい。
それにしても気づいたことがある。『スキップとローファー』、『正反対な君と僕』、そして『アオのハコ』。どれも女性作家である。noteに投稿するきっかけとなった、この夏はまったドラマ『海のはじまり』の脚本家も女性。どうしてなのだろう。私はオッサン。でも、男性的な押しの強さや、パターナリズム。成功するための成長が何より尊いという価値観。そのようなものに辟易してしまったのだろうか。自分でもよく分かってはいない。惹かれた作品の共通点などもよく分析できていない。結局何に感動したのか、うまく説明できなかったが、自分の気持ちを何か型にはめたくないという思いがあったりもする。それでも今後も考えていきたいと思う。
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