見出し画像

咳をしても一人 からす泣いて 私もひとり

最近、ひとりで考える時間が多い。
ひとり、と言っても必ずしも誰もいない場所という意味ではない。
騒々しいカフェでこうやってパソコンを前にして思いついたことを書いたり、本を読んだり、、、、。
その折に思い出すのが尾崎放哉のこの句

咳をしても一人

明治大正を生きた放浪の俳人・尾崎放哉。
一高、東大を出て、東洋生命保険(現・朝日生命保険)に就職して大阪支店次長を務めるなど出世コースを進みながら、すべての財産、職を投げ捨てて妻には去られ、ひとりで放浪の旅に出た。最後は結核を病み、41歳で小豆島の小さな寺のさびれた庵で息を引き取る。

放哉の伝記的小説『海も暮れきる』の著者・吉村昭によると放哉は性格に甘えたところがあり、酒がやめられず、勤務態度も気ままなため、会社を退職に追い込まれ、妻に「一緒に死んでくれ」と頼んだこともあり、呆れた妻は放哉のもとを去り、保険会社の寮母として生涯を送ったそうだ。

咳をしても一人 

は放哉の代表作。

その放浪の句を聞いて、種田山頭火が感動して、

からす泣いて 私もひとり 

と詠んでいる。

山頭火は大地主の子として生まれたが母親は彼が11歳の時に井戸に投身自殺する。原因は父親の放蕩。
山頭火は自伝にこう書いている。最初の不幸は母の自殺、第二の不幸は酒癖。第四の不幸は結婚、父親に なったこと。なぜか第三が抜けている。
 35歳のとき種田家が破産し、故郷すてて、熊本へ移り住み働きな がら俳句の勉強し創作を始める。その後、弟の自殺、酒乱などがあり、曹洞宗の寺で出家得度。安住の場を得たかに思えたがその後も放浪の生活を続ける。
山頭火は晩年の日記に「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と記している。
山頭火は58歳で無一文の乞食同然で松山の一草庵で生涯を閉じた。

咳をしても一人 

からす泣いて 私もひとり

ひとりは寂しい、淋しい、辛い。
でも、ひとりの時間だけが生み出せるものがある。
僕には放哉や山頭火のように全てを投げ捨てて放浪生活をするだけの強さは無いけれど。

それは強さなのか?それとも弱さなのか?

強さ弱さではなく、ただただ流されるだけなのかも知れないが。

汝自らを灯火とする

仏典の一つで、仏教の教えを短い詩節の形で伝えた、韻文のみからなる経典に法句経というのがあって、そこに釈迦と弟子の対話が書かれている。

弟子の阿難が、釈尊に最後が間近いことを知って、
「私はこの先、誰に頼ったらよいのでしょうか」と泣きながら訴えた。
釈尊はいわれた、
「阿難よ、汝自らを灯火とし、汝自らを依り所とせよ。他を依り所とするな。真理を灯火とし、真理を依り所とせよ。」と、・・・・。

人生、迷うことばっかりだけれど、困難も不安もたくさん待ち受ける暗闇の中を、自分の信念を信じ歩いて行く。
そうありたいと思う。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?