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金沢の祭りと一向一揆と利家の残虐性

金沢は今日から百万石まつりだ。この祭は、藩祖前田利家が入場した6月14日に行われるもので、利家の遺徳を偲び、江戸時代から続く加賀百万石、金沢の繁栄に感謝するような祭だけれど、この祭りの歴史はそう古くない。昭和27年に金沢市と商工会議所が共同で商工振興を目的に始まったものが現在の百万石まつりとなった。

古くからの都市には歴史の長い祭があるものだ。
京都の祇園祭、大阪は岸和田のだんじりや天神祭、東京は三社祭や神田祭、東北のねぶた祭等々。

ところが、金沢には神社の境内とその周辺町内で行われる小さな祭はあっても、大勢が集まる歴史の長い祭はない。

その理由は、人が多く集まる祭は、一揆へとつながる可能性があるからと加賀藩が大規模な祭を禁止したからだ。

一揆への恐れは、加賀藩祖、前田利家の残虐性へとつながる。

加賀藩誕生以前、織田信長に越前府中(武生市)の領主を命じられた利家は、一向一揆の民衆およそ1000人を生け 捕りにし、磔にし、釜茹でなどで惨殺した。
当時、北陸は「百姓の持ちたる国」として浄土真宗、一向一揆の支配下にあったが、織田信長はその勢力と敵対し、信長の部下であった利家は一向一揆勢力を根絶やしにするために弾圧、惨殺した。

その後、利家は信長から能登七尾城主に命じられたが、本能寺の変で信長が死ぬと、上杉謙信は能登に侵攻しようとし、謙信に現在の石川と富山県の境に位置する石動山天平寺の勢力が協力する。
利家は、石動山城を攻撃して、全ての寺院を焼き払い、女、子供も含めた衆徒4300人余りを惨殺し、1000人以上の首を山門に吊るしたと言われている。その凄惨さは織田信長の比叡山焼き討ちを越えるものだったとされる。

その後、江戸幕府が成立し、前田家の加賀藩も成立するわけだが、加賀藩の農民に対する税率は8割とも言われる厳しいもので、税以外にも人足労働なども課せられ、領民の不満は非常に高く、それを抑え込むために加賀藩は領内に密告制度を作り上げ、また不満を言い立てる領民を厳しく弾圧した。

前田利家が一向一揆の民を惨殺したことによる子孫たちの恨み。藩政時代の農民、領民への重圧、弾圧に対する不満、恨み。それらが膨らみ一揆へとつながることを恐れて加賀藩は城下での大きな祭を禁止したのだ。

前田利家の残虐性は、多分に主君であった信長に命ぜられたものであったろうし、戦国時代にあって、対立勢力を根絶やしに惨殺することは仕方がないことだったのかも知れない。

加賀百万石の文化は、多くの一般民衆の血と汗と涙によって作られてきたことは確かだ。

だから、百万石まつりには、ちょっと複雑で妙な感じを受けるのだ。

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