![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/171035174/rectangle_large_type_2_dc3d6fb26a56c011f424fe0722b38a82.jpeg?width=1200)
後だしライナーノーツ#2 Nala Sinephro 「Endlessness」- "終わりのなさ"とは何か?
2025年が始まってしばらく経つけれど、私はまだNala Sinephroが昨年リリースしたセカンド・アルバム「Endlessness (邦題: 終わりのない世界)」の余韻を引きずっている。Apple Musicによれば、私が2024年に最も再生した作品はこのアルバムなのだそうだ。そしてそれは、教えられなくとも自ずと分かっていたことだ。
そのApple Music上で、本作は「ジャズ」としてカテゴライズされている。これはシネフロが多士済々のサウス・ロンドンのシーンからデビューしていること、そして彼女の経歴に起因するものだろう。
ブリュッセル郊外で育ったシネフロは、地元のアートスクールのジャズ科を卒業後に渡米。バークリーに進んだものの、思っていたような教育を受けることは出来ず、どちらかといえば副業としていたサウンドエンジニア業を通じて実践的な音響に関する知見を得たようだ。1年余りでバークリーからドロップアウトし、英ロンドンに移住。再度別のジャズ・カレッジに入学したものの、こちらもドロップアウト。のちにシネフロはこのカレッジについて「大きな学校なのに、有色人種の学生が10人しかいなかった」と語っているように、シネフロの中にはジャズ業界に蔓延するアカデミズムや過度な体系化、成績至上主義、そして排他主義的なムードに対する明確な嫌悪が存在する。
↑NTSでNala Sinephroが公開中のプレイリスト
"Endlessness"にジャズ的アプローチを垣間見る瞬間はいくつもあるものの、その数は前作"Space 1.8"と比較すれば減少している印象を持つ。
各曲の展開は、シンセサイザーのフィルター開閉や更に顕著となった音のレイヤリングといった、ともすれば"非ジャズ的"音響アプローチによって拡大/収束していく。前作についても「アンビエント・ジャズ」という単語を用いたレビューがよく見られたが、その意味ではアンビエント/スピリチュアル・ジャズ的側面を更に前進させたというのが本作を聴いての率直な印象である。また、前作に比べればドラム・セクションによってテンポがリードされる割合が少なくなり、代わりにアルペジエーターのテンポ・チェンジをトリガーとするか、リズムそのものが抜け落ちる展開が耳を引く。ドラムキットの強大な存在感から解放されたことでサウンドの自由度は更に向上し、鍵盤、サックス、トランペット、ハープなどによるオープンなアンサンブルが全体の浮遊感を際立たせる。
とあるレビュー記事で、本作について「まるで映画を見たかのよう」という表現で賞賛されているのを目にした。確かに、アルバム全体を通した芸術的な繋ぎの妙や(いつもいつの間にかラストに辿り着いている気がする)、アルペジエーターやハープの音の洪水がもたらす陶酔的な世界観、展開の起伏に吸い込まれ否応なしに没入させられていく感覚は、映画鑑賞の恍惚感に近しいものがあるかもしれない。
一方で、クライマックスに据えられた"Continuum 10"を聴き終えたあとでもなお、エンドロールを見ながら味わうなんとも言えない哀しさや、時間切れの合図のような場内照明によって現実に引き戻される唐突さを想起することはない。それどころか、一通り聴き終えたあとのそれなりに長い時間、それは頭の中でドローンのように唸り続ける。現実世界との縫い目を見せず、身体の中でシームレスに営みが続けられているかのような奇妙な感覚—それは映画的な「物語の完結」を客観的に目撃したというよりは、際限のない「循環」の一部としての自らの肉体を再知覚する経験に他ならない。
"Endlessness"は、そんな稀有なリスニング体験をもたらしてくれる作品だ。
"Continuum 10"が終わり、また"Continuum 1"に戻りながら、2024年の「終わりのなさ」とは何だったかなと考えてみる。終わってほしいことは何一つ終わらないまま、始まってほしくないことが始まっていく。全てが映画だったらどんなによかっただろうか?
最後に。昨年11月にめぐろパーシモンホールで行われた初来日公演に行けなかったことを今でも悔やんでいます……