12/22 歴史と正統性
†歴史の語りかた
大門正克『語る歴史、聞く歴史』を読んだ。共時的に人々の生や体験した出来事を記録し、大文字の書かれた歴史に回収されないような、個人の微細な歴史を書き留めるオーラルヒストリー。今日ではだいぶ広まってきたオーラルヒストリーを、それでは通時的な視点から振り返り、人々の歴史についての聞き語りを近代から通史的にまとめるならどのような歴史が書けるだろうか、というコンセプトの本。
明治維新以後から旧幕臣の語りを書き留める政治の記録にそうした聞き語りの原点を見て、それが速記技術の発明により成り立っていたことを明かす。また民俗学に、文字以前の熱量が息づいている聞き語りを繋ぎ止めようとしたことを指摘する。
明治時代からオーラルヒストリーを振り替えるのはなるほどと思ったし、そうした歴史との交渉で今に消えてない視点を浮かび上がらせようとするのは上手いなと感じる。
また著者のフィールドワークの実践から、聞くことをask、listen、takeに腑分けし、最終的に傾聴だけでなく、そこで聞いた出来事に対して自分がどういう位置に立てるか、どのような歴史叙述ができるのかを考えるのが問題だという。
聞いたこと、個人の歴史を大文字の歴史とどうむすびつけるか、そこで個人の歴史を大文字の歴史の補完で理解するのでなく、そこから大文字の歴史へ向かって何が問えるのかということを考えながら叙述を作ることが問題になる。
この個人の歴史と大文字の歴史の交渉という点は、そこに語りの実在性を絡めた岸政彦『マンゴーと手榴弾』のテーマとも通低するなと思った。ナマの史料を扱うこの分野では書くことへの意識も文学研究とはずいぶん違うなあと思わされる。歴史学の進歩を横で眺めつつ、周辺分野への目配せもエクリを自閉させないために重要だろう。
†正統性とは何か
森本あんり『異端の時代』を読んだ。著者は反知性主義の著作で有名な宗教学者。
ポピュリズムの進行で政治がぐずぐずになってしまった現代は、正統なき時代であり、それはまた正統性の源泉がまったく個人主義のなかのみにできており、個人がすべて「なんちゃって異端」を生きる他ない時代だという。
いわく、正統とは正典や教義から演繹的に導かれるものではなく、個人の経験的な祈りやその歴史からそこにすでに存在しているものだと。その流れから正典も教義も出てくるのであって逆ではない。
そして異端とはそうした流れのなかで先鋭的になり自ら消えていってしまったもののことをいうと。正統側の弾圧によって異端は作られたというのは虚偽の認識だという。
そのなかで、次代の正統を担うような、個人に源泉をもつ思想ではなく、歴史的に強度と根拠のある異端の出現を祈願して本書は締め括られる。ポピュリズムの深淵に宗教的な情熱を見いだしていたり、リベラルがいまいち思考できずに回避する宗教的考察が社会、政治の文脈にも応用されて分析されていることが重要かと。
保守主義は厚みのある伝統をいくぶん、いまここの正義に立脚するリベラルの議論では太刀打ちできない論点を抱えている。それを見た方がいい。