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『クリュセの魚』を読む⑤ 否定形の正史

彰人が決断したのは選択しないことである。それは語りの現在時からにおいて、歴史の正しさを否定的なしかたで肯定している。しかしその語りの時間は母の孤独を語ることで未来の時間に開かれている。
④ 天皇(制)の明日に

†選ばないこと

栖花と麻理沙はお互いがそれぞれの存在の可否を賭けたダブルバインド状況によって危機に陥っていた。それは危機的状況にあって出来事を選択できない生の悲劇である。ここで母と娘は選択の不可能性に直面している。

そのような状況で彰人はどのような行動を起こしたのだろうか。それは「父として責任を取る」ための母娘関係への介入だった。

彰人は、栖花にかけられた「呪い」を解くように誓願するために集約儀の麻理沙との対話に赴いた。この「呪い」は、栖花に継がれた王の血統の運命による「呪い」を直接には指し示している。しかしもちろん、それは同じ血統を継いだ麻理沙にも文脈上通じている。とすれば、彰人の決断は栖花とともに麻理沙をも救済する行為のはずである。彰人の決断は母娘の両者に向けられている。

彰人はその「呪い」の解除のために何を決断したのか。集約儀は彰人との対話のなかで、彰人にタイムトラベルの可能性を持ち出す。それによって集約儀が計算したとおり、「ふたたび選択肢が与えられる。本物のわたしをテロリストから救い、人生をやり直すことができる。こんな幽霊はなく、血の通った大島麻理沙と生きることができる」。その選択肢は「彼らを生み出さないこと」による「もっとも倫理的な解」だった。だが先に見た通り、その可能性を現実に実行することは母娘の死を意味する。時間ループは母娘の救済を意味してはいない。

彰人の決断は時間ループに向けられていなかった。彰人が決断したのは選択しないことの選択である。

「ぼくたちは栖花を自然生殖で作った。栖花を生み出す精子と卵子の配合は偶然にすぎなかった。同じ夜に同じ行為があったとしても、ぼくたちの知る栖花が生まれる可能性はゼロに等しい」
(略)
「だから提案を受け入れるわけにはいかない」

彰人が認めるのはこの世界に偶然生まれつき育った栖花である。彰人と麻理沙の身体が生み出した栖花だけなのである。そしてそれはつまり、父として栖花を生んだ経路のまちがいの歴史をも認めることを意味している。エラーとして現れた世界の歴史を肯定することが、「やりなおさない力」、つまり選択しないことの潜勢力を通して実現されているのである。彰人の意志はそうした生命の経路にかんするまちがいの認識を表明している。

集約儀による反出生主義的見解を斥け、彰人の視線は存在する生命の歴史的肯定に向けられているのである。それは単独者の時間ループによる永劫回帰に、現在からの歴史的解決を試みることだといっていい。テクストにおいて母娘の困難が、血統や象徴という繰り返される無時間的な歴史が表象されることの暴力に根差していた以上、それを調停する第三者の父として介入することはこうした歴史的次元で応答することの意味をはらんでいる。

彰人の意志には生まれた生命の肯定があるといった。しかし、である。この程度のことならばただ当然の話だともいえる。そのような肯定を待たずとも、栖花は栖花なのでありそのように生きてきた。どのような危機にあろうとそのようにいえるはずである。彰人の意志など関係ないと一蹴することもできる。だからこうした意味合いだけで「父として責任を取る」ことは、集約儀のことばを借りれば単なる「ヒロイズム」にすぎない。それはまちがいとしてある歴史の現状追認にすぎないからである。

もちろん、彰人の行為を父の「ヒロイズム」としてあげつらいたいわけではない。繰り返すが、ここでの小説の解釈はそうした糾弾を目的とするものではない。小説の人物の行為にそれ以上の価値を賭するものとして認めようと解釈することだけが可能な目的である。

彰人の視線は歴史の肯定に向けられていると述べた。それはまちがいとしてある経路の認識だと。それでは、歴史を認めることは具体的にどのような行為を通して現れるのか。それは、この小説における時制の枠組みの問題にかかわっている。

†語りと歴史

『クリュセの魚』は、二五世紀の火星に起こった恋愛や政治的出来事などの事件を語る、いわば未来の火星の年代記といえる小説である。その事件がどう語られることになっているのかといえば、彰人の視点を通して、彰人の内面に焦点化されるかたちによって語られている。いわゆる彰人による一人称の小説である。

ここで注目したいのは、その彰人の語りには、語られた出来事とそれが起こった時点での彰人の内面の時間とは異なる、外部に向けられた時制が現れていることである。要するに、このテクストは起こった過去の出来事がすべて終わったある未来の時点から語られているのである。それは、語る彰人のいまの時間が浮かび上がっていることなのだといっていい。

具体的にはどういうことだろうか。そのことは「プロローグ」と「第一部」で、起こった出来事の配列の順番が時系列順ではないことからも確かめられるが、ここではより彰人の語りの志向へと内在的に着目して確認しておこう。彰人の語りのいまが現れた表現はテクストのうちにいくつか存在するのだが、彰人の語りの志向がより現れている個所を抜き出せば、それはこのような具合である。

 けれども、本当はぼくはそのとき通報すべきだったのだ。子どもなのに勇気など出すべきではなかったのだ。彼女の呟く「運命」という言葉に、ぼくはもっと真剣に耳を傾けるべきだったのだ。
 ぼくは選択をまちがえた。
 いまならば、栖花がそのときなにを考えていたのかある程度推測できる。けれども当時のぼくは、娘の声にならない声にまったく気がついていなかった。それでも、もしそこで、そんなことを言い出すなんてなにか知っているのかと、なにを見つめているのかと勇気を出してひとこと問いかけさえすれば、栖花はなんらかの答えを返したはずだった。翌日からの歴史は、そして太陽系の運命は、また少し変わっていたはずだった。けれどもぼくはなにもしなかった。三〇代半ばになっても、ぼくは、麻理沙の声を聞き逃した一六歳のころとなにも変わっていなかった。
 それが、ぼくの二度目の罪だ。

前者は麻理沙がテロを起こす直前に彰人と関係をもった晩での麻理沙についての語り、後者は栖花が祭典でワームホールゲートを破壊する直前に彰人と会話をした晩での栖花についての語りである。こうして並べてみると、二つの語りが共通した同じベクトルによって語られていることがわかる。それは、彰人が麻理沙と栖花に対してまちがった行為の選択肢を選んでしまったことへの後悔、そしてそれが「罪」という表現を通して、より歴史や運命についての正しい観念に照らして行為のまちがいが語られていることである。いうまでもなく、何かがまちがいだといえるのは、それをより上位の正しさに照らし合わせたときのみのことである。ここでの彰人の語りは、後悔という感情を持ちながらそれをより正しいことの観念に照射することと、その自身のまちがいを正確に語りとめておくことに集中している。

ロラン・バルトは、パロール(語り)では一度話されたことは消去できず、その訂正はただ新たな語りを付け加えることによてのみ可能であると論じている(注1)。もちろん、何かの正しさはまちがいという否定形の加算を繰り返した後でしか証明できはしない。バルトに沿うならば、自身のまちがいを後悔とともに積み上げることによって逆説的に正しい歴史の観念を浮かび上がらせようとする彰人の語りの実践は、否定形による正史の記述を志向したものであるということができる。

彰人が選択しないことを決断した論理の背後には、こうした歴史に対して後ろ向きで進もうとする意志のあり方が存在するのである。そしてこうした否定の論理はそれが強調されることによってより正しさへの観念をもつことができる。正統が、何かでないことをいうことでしか表せないものならば(注2)、彰人が決断したまちがいの歴史の肯定は、このような逆説的な正史の論理で照射することによってのみ正統性をもつ。彰人がおこなう出来事の歴史叙述の語りからは、ただの現状追認を意味しないこうした正統性を求める戦略を読み取ることができるのである。

そして肝心なことだが、そのことは語る彰人のいまを通して語られているのである。いうまでもなく、歴史の肯定はつねに語りのいまの時間からなされるほかはない。ならばこの小説の時制は、彰人の否定形の正史を語る意志によって用意されたのである。そのような意志は語るいまにまたはね返ることでよって強く肯定されるだろう。もちろん語りのいまが読書行為の現在に通じている以上、それを読み取ることは読者の領分である。だがしかし、こうした否定形の後悔を重ねる彰人の語りのいまが、読者の位相とは異なる外部に向けて開かれているように感じられるのもまた事実である。それでは、彰人の語りのいまはどのような物語の結末の末に獲得されたものだったのだろうか。そしてそれはどこへ向かうものなのだろうか。

(注1)『言語のざわめき』花輪光訳、みすず書房、1987。

(注2)森本あんり『異端の時代』岩波新書、2018。

†子どもの語り

彰人の語りは否定形の正史の論理によって動かされていた。母娘の危機を彰人は語りによって歴史化することによって「責任を取」ろうとしたのである。だがその出来事の歴史叙述は母娘との関係にとってどのような意味をもつのだろうか。物語の結末部から、最後にそれを確認しておこう。その答えは、先に論じた彰人の語りの志向の意味と疑問に、最後に結びつくはずである。

集約儀との対話に決着をつけた彰人は、集約儀が太陽系から離脱したそれから四二年後の火星に転送されて帰還した。四二年後の火星は政体が変化し、地球では国家間戦争が続発していたが、彰人がなぜその時間に転送されてきたのか、「答えをもつものはだれもいなかった」。

四二年後の火星で彰人は新たな火星の王となった栖花に出会う。

そのすがたは、ついこのあいだまで軽口を叩きあっていた無邪気な少女からはあまりにも遠く、話せば話すほど彼女が栖花だとは信じられなくなるようで、四二年前のあの夏、なぜきみはぼくを捨てたのかと尋ねることができなかった。ぼくが父として話し始めることを、五九歳になった栖花は恐れ巧みに避けているように思われた。

フロイトが提起した概念にファミリー・ロマンスという家族空想についての物語がある。ファミリー・ロマンスとは、子どもが実の親を否認し、より高貴な起源の生まれであることを空想する継子物語のことをいう(注3)。こうした起源探しの空想は、子どもが自らのエディプス願望を叶えるためにおこなわれるのである。

四二年前に栖花が彰人を捨て、「天皇」の血統に連なる者として新たな王位についたのも、こうしたファミリー・ロマンス願望の延長線上によるものだといっていい。なぜなら父をこうして捨てることこそが、母であり「天皇」の血統にあったはずの麻理沙の位置により接近し、象徴的な意味で殺すことを可能にするからである。栖花の「恐れ」という父との葛藤は、こうした母殺しのもとに位置付けることでより積極的な意味をもつ。

しかし逆に、四二年後に彰人が五九歳の栖花に対して感じる葛藤は、こうしたファミリー・ロマンスがちょうど彰人の側に転回したような意味合いをもつように読むことができる。栖花との間で年齢が逆転した彰人が、まるで「子ども」として「母」のような栖花を否認しているような葛藤を感じているというように。ここでいうべきなのは、四二年後の火星に浦島太郎のようにして戻ってきた彰人が、父ではなくより象徴的に子どもの位置として存在しているように読めることである。彰人は新たな子どもとして生まれ変わったのである。子から父へ、そして来たるべき子どもへと。

では、今度は子どもとしての彰人が出生の起源探しのために「母」としての栖花を象徴的に殺そうとしているのだろうか。そうではない。先に述べたように、彰人がおこなうのはまちがいからの正史を志向する語りである。しかしその正史が否定のかたちをとって逆様の正しさを語っていたように、彰人の起源探しも複雑に逆転したかたちをとっている。

彰人は老齢となったLに再会する。Lは彰人が四二年後の火星に戻ってきた理由についてこう話す。

「きみと麻理沙の娘がいる。わたしはもう長くない。これからはきみがわたしのかわりに栖花と火星を見守っていく。火星は太陽系の中心になり、太陽系文明は集約儀の傷を乗り越えてさきに進む。きみは、麻理沙が見せたあの緑の火星を娘に、そして孫たちに伝えるためにこの時代に来たのだと、わたしは思う」

「緑の火星」とは、ワームホールゲートが破壊された混乱の際に、集約儀の麻理沙が彰人に見せたテラフォーミングが完了し自然化された未来の火星のビジョンのことを指している。それは麻理沙が願った「夢」だった。もちろんその「夢」は、麻理沙がかつて平和の「象徴」として願った「クリュセの魚」の生きる未来である。

その「緑の火星」こそ、麻理沙とともに彰人も夢見た未来の火星の姿である。彰人はそれを未来に語り伝えるメッセンジャーの「役割」として存在しているというのである。ならばその語りはいわば、すべての出来事を巻き起こした過去の起源にある麻理沙の欲望を未来に投影することなのだといっていい。過去の人間のはずでありながらなお未来の「緑の火星」を見た彰人が、過去から来た未来人のような存在に生まれなおしたように、過去形であるはずの「母」の欲望もまた、未来の理想の起源として転回し時代を超えることになるのである。このとき彰人のファミリー・ロマンスが願う理想の起源は、過去形ではなく未来形をなしている。しかもそれは「クリュセの魚」という、拡張された新たな「母」の姿を示している。彰人のもつ家族は、四二年後の火星でこうして再生するのである。

過去の起源が未来の理想に向かい逆転した姿。栖花はファミリー・ロマンスの投影として偽史カルト的想像力のつぎはぎを利用し、人類をまとめ上げる母殺しの「天皇」だった。こうした偽史的想像力が起源としての「ほんもの」の過去に向かい、その地点からいまの私たちの成立を物語るものだとするならば(注4)、時間が逆転したファミリー・ロマンスによる彰人の語りの想像力は、起源としての「ほんもの」の未来に向かい、その地点からいまの私たちの成立を語ることを目的にしている。彰人の語りは、まるで逆向きの偽史的想像力のように動かされている。ならば彰人の語りによる歴史叙述は、未来に向けられた語りなのである。それは否定形の正史が、未来形の正史のかたちをとり始める時間だといえる。

そうして語られる「緑の火星」の起源である象徴としての「クリュセの魚」は、無名の象徴であり、象徴のなりそこないであった。ならば、「クリュセの魚」はそのまま「母」の孤独を指し示す隠喩であるだろう。「クリュセの魚」に希望を託した麻理沙もまた、王位を継ぐことなく無名のまま死んでしまった「天皇」のなりそこないだからである。しかしこれからの彰人は来たるべき「子ども」として象徴的に変身することによって、そうした母の孤独を未来に向けて開く役割を担うことになる。彰人の語りが示す正史の時間は、そうした母の孤独の生を歴史化し他者に継承する契機をはらんでいるのである。そうした未来に向けた時間への想像力が未来の他者との連帯を可能にするものならば(注5)、彰人の語りが指す未来は、自身のあやまちの結果である母の孤独を媒介にして未来の他者とつながる、そうした母の喪の時間なのだといえる。母の孤独は、未来への時間の想像力によって他者に開かれるのである。

子どもがその存在によって生の情動を継ぐものならば(注6)、彰人が象徴的に伝えるのもまた、母である麻理沙が願った「クリュセの魚」という生の欲望である。母の孤独と欲望を受け取り、語りによってその情動を未来へと開くこと(注7)。『クリュセの魚』が語るのは、そうした母の生の時間である(注8)。このテクストに表れた出来事や語りの時間のすべては、そうした地点から読むことではじめて意味をもつ。(終)

(注3)ファミリー・ロマンス概念の記述については、小此木圭吾『フロイト思想のキーワード』講談社現代新書、2002を参照。

(注4)偽史的想像力については、すが秀実『1968年』ちくま新書、2006を参照。その歴史とのかかわりについては、長山靖生『偽史冒険世界』ちくま文庫、2001、また小澤実編『近代日本の偽史言説』勉誠出版、2017を参照。

(注5)赤上裕幸『もしもあの時の社会学』筑摩選書、2018。

(注6)檜垣立哉『子供の哲学』講談社選書メチエ、2012。

(注7)河野真太郎は、ポストフェミニズム下の現代でばらばらになってしまった女性同士の連帯の条件は、他者の願望を自分の願望として受け取ることだと論じている(『戦う姫、働く少女』堀之内出版、2017)。『クリュセの魚』もまた、こうした欲望で連帯することの意味を語っている。ただしこのテクストのそれは、象徴的な母とその子どもとの間で開かれる連帯の意義である。いうまでもなく、母と子どものあいだの葛藤はフェミニズムが扱う中心的な課題である。『クリュセの魚』ではそれが、男性ジェンダーに焦点化されることの出来事の意味を扱っているといえる。

(注8)ここで、第三回で論じたことを接続してもいい。『クリュセの魚』において、名前とは人物の生や欲望が必然的なアレゴリーとして表象されるものだった。ならば、こういえるはずである。母の欲望を受け取ることとは、それを必然的に示した母の名を受け取ることであると。欲望での連帯の根源には、こうした名前の受け取りという契機がある。

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