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恋と否認(こじらせについて)②

承前。長いので分割しました。ここでは恋愛本のことについて書きます。

恋について

そういうわけで、ロマンティックラブ至上主義者であるゆえんは、実はこのような男性の傷の否認=こじらせという関心が裏にあってのことで、それに基づいている。言うまでもないが、それは研究対象からの興味関心というより、実体験よりでもある。もちろんトラウマというわけではまったくないが(否認ではないです)。

で、恋愛(学)の本も多く読む。ここでは最近読んだ雑書について簡単な感想。もちろん、面白いとおもったので記しています。

トイアンナ『モテたいわけではないのだが』(文庫ぎんが堂、2018)は、いわゆる草食系男性への恋愛指南本である。痛々しくならない程度に文体は砕けていて、読みやすい。

この手の本は、当然意中の人とのコミュニケーション術の記述が中心になる。それが書かれてあって実践できたら苦労はしないが、要するに他者の他者性をよく見ろということになる。当たり前のことを言っているが。この本は、それに対するハードルを下げる、を目標に掲げており、いくぶんか誰でも実践しやすいのではないかとおもう(何目線?)。

まあ正直、恋愛指南本というのも慣れないもので、正直文字通り「モテたいわけではないのだが」であるので、いくぶんか異世界人の行動を見るような気持ちで覗いている。恋愛が(当たり前ではなくとも)そもそもできる人って何者……?くらいにはおもう。しかしそういう異世界人ウォッチャーにも、興味本位ではなく誠実な記述が主体なので、襟を正すような本であり、面白かった。

恋愛本には、恋バナというジャンルもある。これまた正直、食傷気味なところはある。というかこじらせているので、そもそも恋愛ができている人の体験談にイラっとすることもままある。

そんな中でも桃山商事の活動には最近目が向くようになった。桃山商事は人の恋バナの悩みを聞き、相談者とともに考えてみるという活動を実践しているユニット。近年はメンバーである清田隆之が男性学の問題について著し(清田隆之『さよなら、男たち』スタンド・ブックス、2020など)、積極的にソロ活動をするなど、注目を集めている。私の興味もそこからになっている。

桃山商事『モテとか愛され以外の恋愛のすべて』(文庫ぎんが堂、2018)はそんな桃山商事の活動を記した本。桃山商事のメンバーが対談式で、恋バナをもとに恋愛のあれこれを分析するつくりになっている。

この桃山商事の方々、話芸に秀でていて、とにかく読んでいて面白い。恋バナ嫌悪(?)気味の人でも読んだら思わず吹き出してしまうこと必至である。その理由のひとつに、たぐいまれな話芸や分析力もあるのだが、とにかく恋愛や性に関する事象のあれこれに対する名付け力がすさまじいことがある。もやもやした輪郭が不明瞭な物事に名前をつけてうまく分類するのは研究の基本だが、とにかくそれが上手い。まあ下ネタ多めなので引用はしないが、文章中、太字で強調された箇所を目で追うだけでも笑ってしまう。そういう本である。

性に関することにつきまとう語りにくさをこういう造語力で突破し、それを複数人で共有し享楽に変える。こじらせに対するひとつの理想的なアプローチではないかとおもう。

そういう本書でフィーチャーされるのが、惚れた腫れたのストレートな恋愛相談ではなく、一緒に食事をしていてありえなかった行動の類い、おならなど日常の油断に関する悲喜劇など、生活の些細なモチーフである。恋愛においてもっとも他者性が現れるのが、当然こういうディティールであるからだろう。そんなところから人となりや人生の道筋、生き方が切り出されてきて、感心することしきりである。

そして恋バナの中でも女性オタクの経験に特化しているのが、劇団雌猫『誰になんと言われようと、これが私の恋愛です』(双葉社、2019)。女性オタクの恋愛体験や結婚観、推し活動の話を集積したものとなっている。

寄稿している方の初恋のプロフィールが掲げられているのだが、オタクらしく多くは二次元のキャラクターの名が挙げてあるのが読んでいて楽しい。タイトル通り、これが私の恋愛なのである。

恋人がいても、推しに対する愛情は問題なく共存する。それが生きる希望にもなってくる。そして、推し自体が恋愛対象という場合もある。独身、パートナー、配偶者の有無、恋愛に対する嗜好。そのすべてはある意味こじれていて、それぞれのディティールはバラバラなのだが、しかしこれが私の恋愛だというその誇りの一点を根拠に、ひとつひとつの恋バナがこの本に集っている。

恋人の有無のみならず、結婚しているか否か、それに何を託しているかという話題に多くの記事は及ぶのだが、当然それは極めてデリケートな問題であり、そのことを話した途端、友人とのあいだで見えない強固な壁が作られるほどである。それほどまでに、こういう話題は人を分断する。読むだけの読者であってさえ、この人の体験は私には無縁かな、と思ってしまうこともままある。

だが、様々な差異を含むものの、そこに寄せられた、自らの経験というただ一つだけしかない恋バナのことを読むと、自然とカタルシスが生まれてくる。そこにある誇りや、その人の人生の軌跡が一部とはいえ、透けて見えてくる。そのことに対して、おもわず敬意を払わずにはいられなくなる。

確かに、恋バナを読んだり聞いたりすることは、ときに不快であり、居心地悪くなる経験でありうる。何も共通点がない。こじらせているようだけど、この自分にとっては参考になることはない。あんな勝ち組の人生には無縁だ。そういう思いが去来する。しかし、その一つ一つをよく聴くとその人の人生があり、それぞれが好きな人やキャラクターを持ち、愛する体験をしているのだ、ということを考えると、それになぜか感動を覚え、こんな自分でさえも、という希望が生まれることもある。それが、たぶん昇華ということなのだとおもう。

恋バナを聞くと、ときに、不快であり希望であるようなそんな複雑な気持ちを抱く。これらの本は、そういう恋の二面性を喚起させてくれる本たちだった。

そして、こうもおもう。こんなにもいろんな人が自分の恋の傷やこじらせに対して向かい合っているのだと。私だって、もちろんこじらせていると自覚しているつもりではある。そもそも、毎年特定の今日この日に恋愛論を読む行為は、よく考えたらこじらせ以外の何ものでもない(それにしたって、今日おもいいたったのだけれども……)。しかし、これほど「こじらせ」という言葉のことを考えることもなく、ともすれば自分の傷を否認していることがなきにしもあらずだったかもしれない(こんなに何年も毎日考えているのに)。だって、リアルでは誰かに話したこと一度もないし。そのぶん、傷跡のかさぶたもとれてはいないのかもしれない。だったら、今日この日は、改めてこじらせ記念日ではないかと、そうおもうようになった。そんな「こじらせ」という視点を手に入れた場所から、また今年も考えて行けたらとおもう。



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