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『ファイト・クラブ』をほどいてみる

本稿は、先日(8.22)私的な読書会の場で発表した『ファイト・クラブ』読解の原稿であり、それに当日の議論をもとに加筆修正を施した。発表や議論を促してくれた読書会の仲間たちに謝意を記したい。

1 ファイト・クラブへの入り方

気が進まない。たぶん今までで一番そうだ。『ファイト・クラブ』をどう論じればいいのか? その問いの前で詰まってしまう。啓蒙や教養のモードとして、あるいは対象的に見つめる研究のスタンスもいい。でもそれではダメな気がする。『ファイト・クラブ』にふれる上で、それが正しい選択とは思えない。この作品にはどのようにふれたらよいのか? とくに男性性について考えるときに。そんなとまどいから始めたい。

『ファイト・クラブ』については名前だけは知っていた。同名の映画が1999年に公開、世界中で大ヒットを記録した。『ファイト・クラブ』のメインテーマは反資本主義と男性性の発露だ。非常にわかりやすい。だから熱狂的なファンを生み出すことになった。しかしそこには大きな歪みもあった。それは後で記す。

映画が大ヒットしたから、そしてそのテーマがセンセーショナルだったから、『ファイト・クラブ』についての論考は大量に書かれた。ある評論家はこれを「マッチョポルノ」と呼んだし、映画の反資本主義の問いが、男性性の凋落の問いが、アカデミックな場でまじめに論じられもした。それは小説のあとがきでパラニューク自身がいくぶんか揶揄しながら記しているとおり。『ファイト・クラブ』の問いの種子はそうして全世界にばらまかれた。

私がこの作品の内容を知ったのは、映画ジャンルについては疎くまったく知らなかったから、いくつかの教養書を通してだった。たとえば戸田山和久は、獣医になりたかったレイモンド・ハッセルをタイラーが脅迫する映画のシーンを「啓蒙」と呼んだ(『新版 論文の教室』NHK出版、2012)。あるいは國分功一郎は、消費社会の論理にどっぷり浸かったまま消費社会を否定するタイラーの身ぶりを「現代の疎外」と名付け、消費社会における自己疎外を論じた(『暇と退屈の倫理学』朝日出版社、2011→増補版、太田出版、2015)。『ファイト・クラブ』の名を知ったのはこうした啓蒙や教養のモードを通してだった。それを知ることが、現代社会や思想の知識を過不足無く積み上げることが、自分の力になるとおもっていた。しかし、主に反資本主義や消費社会についての問いは自分には身に余るものだった。それを理解することもできず、そのときはスルーしていた。

それから何年も経って、小説の『ファイト・クラブ』を手に取ったのは書店でとあるポップを見かけたからだった。早川書房のSF小説のコーナー。この本は『アステリズムに花束を』の種になった本です。そう書かれていた。『アステリズムに花束を』(ハヤカワ文庫、2019)は去年話題になった百合×SFのアンソロジー。百合に興味があったので、この本はすでに読んでいた。そこで、このポップが目に入ってきた。ポップは『アステリズムに花束を』の編集者が文面を書き起こしたもので、興味をもった。なら『ファイト・クラブ』も面白いのではないかと。こうして『ファイト・クラブ』は誤配のようにして読んだ。女性同士のつながりから、男同士のつながりへの跳躍。

近年になって新版として復刊した翻訳小説としての『ファイト・クラブ』のカバーには、その編集者によるアオリ文が付されている。

本書は#ブラッド・ピット主演、#デヴィッド・フィンチャー監督による#傑作映画の原作小説です。#世紀末1999年に公開された映画版には#全世界が熱狂しました。日本にも数々の影響を与えており、映画通として知られたSF作家#伊藤計劃#オールタイム・ベストの1つとしても知られています。#自分の人生はどこにあるのかというテーマは今なお切実で、さらに本書には#文学でしか味わえない痛みがある――その#怪物級の面白さや、#パラニュークという天才のことをたくさんの人に知ってほしい。だから私は早川書房に入社しました。読んだ者の#人生を変える1冊であることは間違いありません。[早川書房・溝口力丸](強調原文)

「人生を変える1冊」かどうかは、自分の身に照らしてまだわからない。正直、殴り合いをしたことがないからファイトのシーンには今ひとつ感慨も覚えなかった。しかし、「ぼく」の視点を通して、確かに『ファイト・クラブ』は傑作だとおもった。小説を読んで映画も見たがそう感じた。

しかし、その「怪物級の面白さ」はどこか自虐的な重みで支えられているようにも感じた。端的に言えば、『ファイト・クラブ』を読んで真っ先に感じたのは悲しみの感情だった。現在なら「ブルシット・ジョブ」(デヴィッド・グレーバー)とでも呼べそうな、人間らしい真っ当な仕事をすることが不可能な「リコール・コーディネーター」である「ぼく」。出張続きでホテルの「ミニチュア生活」を満喫することで、住み着くこともまれな高層コンドミニアムでイケアの家具を収集し満足する空虚な「ぼく」。タイラーとマーラとの間で板挟みになり、同様に疎遠な両親の間で「メッセンジャー」を務める六歳の自分を思い出し嫌悪の情を吐き捨てる「ぼく」。そしてタイラーとともにファイト・クラブにのめり込み、それを引き継ぐ騒乱プロジェクトでついには殺人まで実行してしまう「ぼく」。また直感で言えば、その悲しみはこの作品における男性性に紐付いている、そうおもう。ここには男性性についてのアイロニーがある。それが悲しみの感情として私に引き起こされているのではないか。

この作品にはアイロニーがあるのではないかと言った。しかし、『ファイト・クラブ』における男性性をベタに受け取るひとたちもまた存在している(「『ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデンは映画でもっとも誤解されている男か?」https://www.bbc.com/culture/article/20190717-is-fight-clubs-tyler-durden-films-most-misunderstood-man?referer=https%3A%2F%2Ft.co%2F3pb8iuvjLx%3Famp%3D1)。『ファイト・クラブ』のファンは今もなお多い。そのなかでも、ファイトを繰り広げ社会を破壊するタイラーの男性性に熱狂し、堕落した男の復権を求める彼らはインセルと呼ばれる。彼らはフェミニズムが伸長し女性が社会進出した現状を「自らのパイが奪われた」と錯覚し憎悪する。フェミニストへの攻撃や、フェミニズムへのカウンターとして男性の権利運動をおこす彼らは、近年のオルトライトの発展とも深くかかわっている。インセルにとって、消費社会を憎み破壊するタイラー・ダーデンは男らしさを塗り固めた偶像と化している(インセルに関してはレイチェル・ギーザ『ボーイズ』冨田直子訳、DU BOOKS、2019。男性権利運動に関しては海妻径子「CSMM(男性「性」批判研究)とフェミニズム」『現代思想 特集男性学の現在』2019を参照)。

インセルにとって、最初に私が感じたような作品のアイロニーは存在しなくなってしまったのだろうか。仮にアイロニーを認めていたとしてもそれをまったく否認している、そう感じてしまう。本当のところ彼らが直接何をおもうのかは伺い知ることはできない。だが彼らの鬱屈したような気持ちは汲み取れるような気もする。ならばここには、『ファイト・クラブ』の受容における大きなアポリアがあるのではないだろうか。そしてそれはおそらく作品の男性性のありように大きくかかわっている。

直感的にいえば、性差別の残るこの社会で男性というジェンダーロールを演じている限り、インセルまではあと一歩、そうもおもう。何も実際に銃を手に取り破壊活動に乗り出さなくても、その裏にある彼らの鬱屈さを考えるとき、たとえば『ファイト・クラブ』を読んで悲しみを感じた私のその感情と彼らの感情には何か通底しているものがあるのではないか。

『ファイト・クラブ』をほどいてみることはできないだろうか。それは「ぼく」の、タイラーの、男たちの悲しみを、痛みを、性をほどくことだと言える。どうして『ファイト・クラブ』からアイロニーの可能性が排除され、ベタに受け取られるようになってしまったかを考えること。それはおそらく男たちの性に言葉を与えてみる試みになるだろう。

そのためには、『ファイト・クラブ』に一人称で近づいてみること、それが必要なのではないかとおもう。それは私の思考から、経験から、「ぼく」やタイラーの輪郭をつかまえてみること。彼らのありように想像的に接近してみること。そんな行為が求められるのではないか。それは、おそらく啓蒙や教養のモードから外れて、『ファイト・クラブ』を自分の痛みとして想像してみることにつながっている。研究という対象に向かって三人称で取り組む思考の枠組みを外してみること。男たちの痛みを理解し、それに輪郭を与えることにはそんな接近の仕方がふさわしいようにおもう。「人生を変える」ためにはそうあってしかるべきではないだろうか。


2 互助グループの「脱構築」

どうすれば男たちのありようをほどくことができるのだろうか。「ぼく」の悲しみや痛みにどのように接近すればよいのだろうか。感情に焦点化すると、「ぼく」のありようはたった一人の孤独な生のようにも見えてくる。だが、それは正確ではない。「ぼく」は自らの不眠症を癒やすために、精巣ガン患者や結核患者の互助グループを渡り歩いていた。「ぼく」は一人ではない。互助グループから「ぼく」の生を見るならどのような理解ができるだろうか。まずそのことを考えてみる。

しかし結局のところ、「ぼく」は互助グループに不眠症解消のためだけに来ているのだろうか。「ぼく」の当初の目的としては、不眠症の治療が第一だ。だが、「ぼく」の体験はそれだけの意味をもつものではないようにおもえる。「ぼく」の互助グループでの体験はどのような出来事として彼に現れているのだろうか。

「ぼく」はいくつもの互助グループを渡り歩く。精巣ガン、結核、黒色腫、白血病、住脳寄生虫感染症、結腸ガン、器質性脳障害、骨疾患……。そこで「ぼく」は精巣ガン患者としてのビッグ・ボブや住脳寄生虫感染症患者としてのクロエに出会う。だが重要なのは、それらの互助グループのなかで「ぼく」はまったく本名を名乗らないことだろう。なぜならば「ぼく」がマーラに対して正確に認識する通り、「ぼく」は「詐病」だからだ。そもそも互助グループは、同じ病を抱える患者同士が同じ苦悩を確認し分かち合う、または「少数派同士が、自分の体験の中で繰り返されていたり、互いの体験の中で繰り返されたりしているパターンを発見し、そこに新しい言葉をあてはめていくことで、「言葉のユニバーサルデザイン」を実現する実践」(熊谷晋一郎『当事者研究』岩波書店、2020)を当事者としておこなう営みの共同体を指す。もちろんそれは規範ではないが、傾向としてそのようなことは言える。

だから互助グループとは、その構成員がお互いに「我」と「汝」のような二人称的なかかわりをもつ共同体のことだ。ならば、その空間で本名を隠し匿名の人間として埋没する「ぼく」は互助グループに対して結局第三者としてふるまっている。それは互助グループの存在意義を根本的なところで根こそぎにしてしまう行為だと言えないだろうか。「本物の苦痛」を味わうために、そして生と死の臨床体験を繰り返すためにそこに通う「ぼく」は互助グループを裏切ってしまっている、あるいは互助グループに対してそもそも二人称的な人間同士のかかわりをもとうとしていないかのように見える。事実、「ぼく」は同じく「詐病」で通っているマーラとお互いどの互助グループに行くか取引を試みる。それらのグループは恣意的に交換可能なものであり、「ぼく」はそこで誰に会えなくなるのか、どのような体験ができなくなるのか、考えられる可能性に無頓着だ。そのような「ぼく」のあり方を「感じない男」(森岡正博『決定版 感じない男』ちくま文庫、2013)と呼んでみてもよいだろうか。

対他関係で自らを匿名性に埋没し、一方通行のかかわりをもつ。そうすることでしか生の実感を確認できない「ぼく」のありようを、ひとまず「ぼく」の痛みと呼ぶこともできるだろうか。しかし読者としてそこに共感することは、ひとつの罠のようにもおもえる。そのような痛みを「ぼく」に、いや私に投影して共感することは、弱さを抱えて生きるほかない現代の男性性のあり方を、それでいて社会の性規範や性差別構造を撃とうとしない男性性のあり方を最悪の形で罷免することになってしまう、そうおもうのだ。おもえば自らの弱さを自覚しつつ、それでいて他者に憎悪を反転させるのがインセルだったではないか。男性性の弱さをめぐる俗情との結託。

だから、互助グループでの体験を「ぼく」の弱さに託して共感するような読解行為をすることはできない。それは「ぼく」の言い訳でしかない。ならば、テクストにおける互助グループのあり方をもっと底まで見つめなくてはならない。『ファイト・クラブ』において互助グループは男性性の弱さを賞賛するための安住の地ではない。

『ファイト・クラブ』において互助グループと呼称される共同体はもうひとつある。タイラーはファイト・クラブの発展に従って社会破壊のための騒乱プロジェクトを組織することになる。それにともなってコミッティが成立し、タイラーが選んだ構成員のスペース・モンキーがペーパー・ストリートの「ぼく」の家に住み着くことになるが、「ぼく」が語るように彼らとの共同生活もまた互助グループのような様相を呈している。

スペース・モンキーはそれぞれの与えられた役割に従い各々で行動している。だがスペース・モンキーの話す言葉はただ一つ、タイラーの言葉でしかない。

 ぼくが帰ると、スペース・モンキーの一人が一階の床を埋めて座るスペース・モンキーたちに読んで聞かせている。「おまえたちは二つと同じ形のない美しい雪片などではない。ほかのすべての者と同じ衰えゆく有機体であり、我々は同じ堆肥の山の一角だ」
 スペース・モンキーは続ける。「我々の文明では我々はみな同じだ。真の白人、黒人、金持ち、そんなものはもはや存在しない。我々の望むものは一つだ。個々の人間は無だ」

「ぼく」が吐き捨てるように、スペース・モンキーとは「ぼく」も含めて社会における「くずの集団」に過ぎない。しかし、タイラーの思想を中核にして、彼の言葉だけを紐帯として、「くずの集団」はつながっている。タイラーの言葉はアナーキズムによってすべてを支配し隷属させるための言葉だが、それは、これまでスペース・モンキーが社会でその身で繰り返してきたであろう「体験のパターン」をとらえそれに輪郭を与える言葉だ。つまり、こう言ってよいならば「当事者研究」の理想を最悪の形で裏返したのがタイラーの思想であり、言葉だ。「くずの集団」の当事者研究。これは痛烈なアイロニーだろうか。

するとそれを体現したスペース・モンキーの共同体は、テクスト前半における病による互助グループをちょうどネガに折り返した存在と言える。ならば『ファイト・クラブ』において、互助グループとはその弱さによってつながる理想が過激なマチズモのテロ行為に反転してしまう可能性を劇的に表現したものだと言える。『ファイト・クラブ』において互助グループは両義的なあり方を示している。もちろん、露悪的なニュアンスをまとったものとして。

河野真太郎は、以上のような『ファイト・クラブ』における互助グループの両義性についてこうまとめている。

だが、『ファイト・クラブ』の面白いところは、カウンターカルチャー的なものの否定、「女々しきもの」の否定として生み出されたファイト・クラブそのものが、ヒッピーのコミューンのような、『ワンス・アポン』のマンソン・ファミリーのような、一種のセラピー的コミュニティに落ち込んでしまうしかないことである。これの現実上の対応物はもちろん、冒頭に触れたインセル的なコミュニティである。これでファイト・クラブが「カウンター・カウンターカルチャー」であるということの意味が明らかになっただろう。(「ポストフェミニスト・マスキュリニティ、または、ブラピかセラピーかの映画史」『早稲田文学 2019年冬号』、2019)

ならば結局、『ファイト・クラブ』において互助グループは「カウンター・カウンターカルチャー」の論理に回収されるものでしかない。テクストにおいて互助グループは、男たちのマチズモに転用されてしまう。「ぼく」の互助グループでの経験に寄り添って読み解くことだけでは、男たちの痛みをほどいて理解することはできない。おそらくその男性性のアポリアには、さらなる深い根がある。


3 名を与えること

ファイト・クラブの規則は全部で七つある。しかしもちろん一番重要なのは第一条ならびに第二条、「ファイト・クラブについて口にしてはならない」だろう。禁止の反復。もちろんその禁止はただちに破られる。でなければファイト・クラブは各地に広がるムーブメントをおこすことはなかった。だがその禁止を犯した者にはテクストにおいて死の制裁が下される。事実、たとえば「ぼく」にファイト・クラブを布教してしまったビッグ・ボブはそのことによって死んだのだとも象徴的に言える。だから実のところ、『ファイト・クラブ』は禁則事項、禁忌と侵犯とをめぐるテクストと言っていい。それも象徴的に、言語の禁止をめぐっての。

言語の禁止という点から考えてみるとすぐに思い浮かぶのは、テクストにおいてついに明かされないままに終わる語り手の「ぼく」の本名だ。テクストにおける無名の語り手。「ぼく」の本名を知っているはずなのはタイラーとマーラ、それとごく少数に限られている。先に見たように、互助グループにおいて「ぼく」は絶対に本名を明かさなかった。「ぼく」の名前は「ぼく」でさえ語ることはない。そして「ぼく」の名を知る彼らによっても語られることはない。だからこのテクストにおいて一番孤独な生のありようをしているのは、「ぼく」の名前だとも言える。

それに名とは自らのためだけにある言葉ではない。たとえば「ぼく」のことを愛していたマーラでさえも、最後に呼ぶのは「あんた」という語であって、「ぼく」の名ではない。名とは「ぼく」のアイデンティティを示すだけのものではない。それは他者があなたに呼びかけ、語ることの可能性を示す語だ。名は贈られるために存在している。それは他者のための語だ(岡真理『彼女の正しい名前とは何か』青土社、2000)。他者を想像する可能性としての言葉だ。

ならば、『ファイト・クラブ』で「ぼく」の悲しみや痛みに近づいてみることとは、象徴的な意味で「ぼく」の名を知ること、「ぼく」の名を想像してみることではないか。一度も語られなかった名に近づくこと。他者があなたのために語るはずだった名を想像すること。そして、『ファイト・クラブ』が、「ぼく」が一度も語らなかったことを想像してみること。が「ぼく」『ファイト・クラブ』の言語の臨界点を見極めること。テクストにおける男たちの生を修復する読解を試みることとは、突き詰めて以上のような仕事が求められるのではないか。

男たちに名を与えること。男たちの語らなかった出来事の質を想像してみること。そのように言えるとおもう。その行為はきっとテクストを一人称で見る私の、そして『ファイト・クラブ』に熱狂するインセルの、生を照らすことにもなるはずだ。

『ファイト・クラブ』における言語の象徴的な位相について語り始めた。では、テクストの語りや文体はどうだろうか。テクストの語りや文体は、何を語って何を語っていないのだろうか。

『ファイト・クラブ』の文体は、散文というよりは、必要最小限の出来事だけが緊密に配置された現代詩に近い。それはカメラの高速なスイッチングにより強制的に「ぼく」の視点からの時間が進んだり、クロスカッティングによってタイラーの視点に入れ替わったりするからだ。だから『ファイト・クラブ』とは時間というより空間を語るメディアに近いと言える。『ファイト・クラブ』は本質的に無時間なテクストなのだ。事実、『ファイト・クラブ』は「ぼく」の回想を枠とする枠小説の体裁を取っている。タイラーが計画によって「ぼく」の口に拳銃を突っ込み、「すべてを記憶している」「ぼく」は過去を振り返る。物語言説における時間の速度は、「ぼく」/タイラーの自殺をひたすら遅延させることで成立している。

『ファイト・クラブ』が本質的に時間を語らないとすれば、テクストは「ぼく」の成長を語ることはない。タイラーの社会の破壊への、そして人類の「絶滅」への空虚な過程がただ薄く引き延ばされて残されているだけだ。『ファイト・クラブ』において時間は「ぼく」の占有下にあるものではない。「ぼく」の時間を語るものではない。

ならば『ファイト・クラブ』は何のために語られるのか。『ファイト・クラブ』において流れる時間は誰のためにあるのか。それはもちろんタイラーのためだ。『ファイト・クラブ』はタイラーが自らの思想をかけて「ぼく」を、読者を説得するためのテクストとして存在している。タイラーの時間を支えるために、テクストの語りも文体も彼に奉仕している。タイラーはサブリミナルにポルノシーンをフィルムに挟み込む映写技師だった。テクストはタイラーの仕事を模倣することで、タイラーの言葉を伝えるためだけに働いている。この作品に捧げられた「マッチョポルノ」という評はその意味で的を射たフレーズと言える。文体そのものがタイラーの思想を支え散布する託宣のようなものだ。それに読者は欲情している。だから『ファイト・クラブ』は「ぼく」の語りによって進行するテクストだが、しかし、ほんとうに焦点化されているのはタイラーの思想、それを象ったタイラーの言語そのものだと言っていい。これを露悪的と呼ばずになんと言おうか。

「ぼくはジョーのハードディスクです」。身体なき器官な「ぼく」の生の時間はタイラーによって象徴的に禁止されている。器官としての「ぼく」の生。そもそもこうした「ぼく」の雑誌から覚えた言い回しはテクストに頻出しているが、それはもちろん「ぼく」の言語が、名が、禁止された領域にあるからだ。「ぼく」自身の言葉はどこにあるのか。「ぼく」の言語や名を想像することは、それだけ難しい。

ならば「ぼく」が語るのは「ぼく」の語りではない。言うなれば、タイラーの言語だ。「ぼく」はタイラーと接触するうちに、タイラーの言い回しを、クリシェを、タイラーの言いそうなことを想像しながら使用することになる。たとえば、ボスにファイト・クラブ規則のコピーを発見されそのことを咎められた「ぼく」は、こうやりこめる。「ぼくは言う。これを書いたのはどうやら頭のいかれたかなり危険な殺人者か何かのようだし、こんな支離滅裂なたわごとを書く人間なら、勤務時間中に突然、理性を完全に失」うともかぎらない。「アーマライトARー180ガス圧作動方式セミオートマチック」を、「イーグルアパッチカービン銃」を抱えオフィスをうろつくかもしれない、等々。「怖いですね」。「タイラーの言葉がぼくの口から次々と出ていく。以前のぼくは善良そのものだったのに」。「ぼく」の言語はタイラーに犯され、暴力を語るようになる。

「ぼく」の名はどうか。テクストにおいて名前の操作のシーケンスもまた重要だ。「ぼく」の本名が伏せられていることは繰り返し述べてきた。だがそれによって証されるものとは何か。それは、テクストにおける名とまたしても暴力との連関だ。

どういうことか。「ぼく」の本名を知る人物は限られている。たとえばボス。そのボスは「ぼく」に「リコール・コーディネーター」の仕事を押しつける。「ぼく」の精神は労働で蝕まれている。メカニックとの「臨生体験」、すなわち死の直前に「ぼく」が願ったのは仕事を辞めることだった。「ぼく」の存在は仕事に紐付けられ、「ぼく」は苦痛を被っている。またあるいは、両親も「ぼく」の名を知っていただろう。しかし疎遠な両親の間で「メッセンジャー」としての役割のみ演じる「ぼく」にとってそれは苦痛でしかない。トラウマ的暴力。そうして誕生する精神的暴力の被害者としての「ぼく」。

「ぼく」はそれから逃れるようにして、互助グループへ、そしてファイト・クラブへ向かう。そこでは名は問われない。名を隠す「ぼく」にとっては匿名に埋没できる空間だ。「ファイト・クラブでの男たちは、現実世界での彼らとは別の人間だ。コピーセンターの店員にみごとな闘いぶりだったと声をかけたとしても、相手は別人だ」。「ファイト・クラブでのぼくは、ボスが知るぼくじゃない」。匿名空間での男たちとの経験は「ぼく」にとって「リアル」なものだ。しかしそれは当然リアルな身体的苦しみであって、現実の暴力以上のものではない。暴力は暴力だ。

テクストにおいて「ぼく」の名を知るものは、「ぼく」に精神的暴力を課す。しかし匿名空間に逃れたとしても「ぼく」を待ち受けるのは身体的暴力だ。「ぼく」は象徴的に名をめぐって暴力から逃れることはできない。

そして最終的に匿名空間でのファイト・クラブの暴力がもたらすのは、圧倒的にリアルな死だ。たとえば、騒乱プロジェクトに参加するなかで、ビッグ・ボブは命を落とす。そこで彼の名はテクストにおいて初めて明かされる。「彼の名はロバート・ポールスン、年齢は四十八」。彼の名は男たちに読み上げられ、祀られる。「死んで初めてぼくらは名で呼ばれる。死んだ者はプロジェクトの一員ではなくなるからだ。死と引き換えに、ぼくらは英雄になる」。

だから、「ぼく」の名もまた奪われている。たとえ拳銃で自らを撃ち抜いたとしても、記録され、伝説となるのはタイラーの名だ。「ぼく」の名が呼ばれることはない。事実、テクストにおいて最後に語られるのは「ぼく」の名ではなくタイラー・ダーデンという男の名だ。だからたとえば「ぼく」はテクストの現実において死んではいない、とせめて解釈できるかもしれない。「ぼく」がいる「天国」とは精神病院のような場で繰り広げられた夢や妄想であり、「ぼく」は一命をとりとめていると。

しかし結局、そうした解釈は「ぼく」の名を隠蔽し排除する仕儀にしかならない。重要なのは象徴的あるいは現実的な死の暴力を経験したとしても最後まで贖われることのない「ぼく」の名だ。ここで「ぼく」の生を想像する『ファイト・クラブ』の読者は、私はまたアポリアに落ち込む。「ぼく」の名をどのようにして想像すれば、「ぼく」にどのようにして返せばよいのだろうか。


4 男たちの性と機械

より深くまで考えてみる。そもそもテクストにはどのような構造が存在していて、「ぼく」の名が奪われるようになったのか、その理由を。

ほんとうの名が排除されたことによって、「ぼく」は労働やファイト・クラブで有形無形の暴力を受けることになった。その「ぼく」の暴力のジレンマは、労働の苦しみ、すなわち精神的暴力から解放されるために、現実的な苦しみ、すなわち身体的暴力が支配するファイト・クラブを求める、という図式として提示できそうだ。ならばつまり、そのような形で「ぼく」の精神と身体は寸断されているのだと言える。

北村紗衣は「ぼく」が生み出したタイラーがマーラを性的に求め、語り手の「ぼく」は人格的にマーラに惹かれているという構造をもとに、「ぼく」とタイラーとの間での恋と性欲の分裂を指摘している。つまり「ぼく」はセックスによってマーラに対して真面目にコミットメントしようとしているのを恐れているのだ、と(『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』書肆侃侃房、2019)。

ここにすべての原因があるのではないだろうか。男たちの精神と身体の分離。恋と性欲の分裂。それこそが、男たちに悲劇をもたらした根本であるようにおもえる。要するに、男は自分の性欲にまともに向き合えないのだと。男たちはそれに名を与えることができないのだと。そこを見つめる必要があるのではないか。恋と性欲の間で、本当は何が欲しいのか。男たちの痛みや悲しみの根本として。

それでは、精神と身体を分断している男たちは、望む宛先に贈ることのできない自らの性欲を代わりにどこに投射しているのか。そうおもうとテクストを見てすぐに気づくのは、男たちと機械群との親密なつながりだ。フランスの批評家ミシェル・カルージュはカフカやデュシャンを論じながら、近代における男たちの神話として、独身者と機械とのつながり、エロティシズムのありようを問題化している(『新訳 独身者機械』新島進訳、東洋書林、2014)。カルージュが論じるのは、文学における機械イメージとそれが男たちにもたらす快楽、そして死だ。

一事実として独身であるというのではなく、特別な精神のあり方として独身であることは、ある種の人間的感覚の喪失が土台になっている。つまりは女性との関与、交流の不可能性である。(…)実際の知識が欠如しているからではない。将校は、機械の仕組みのすべてを熟知しているが、彼をそこに導くことのできる者はおらず、恍惚を味わうことができなかった。彼は自ら機械にかかる運命にあり、それがために解放はもたらされず、起こったのは機械の崩壊と、なにももたらさない自身の死であった。(前掲『新訳 独身者機械』)

男たちに欠如しているのは「女性との関与、交流の不可能性」だとカルージュはいう。男たちは女への欲情をまともに相手にする代わりに、機械群へ向かうのだと。そこで実演されるのは、「機械がエロティシズムをひとつのプロセスにしてしまい、人と人とのありとあらゆる生物的、精神的関与からエロティシズムを切り離している」出来事だ。

だから男たちの対他関係は崩壊しているのだ。機械を相手にするということは孤独な第三者的かかわりのもとで対象をモノとして愛することだからだ。先に「ぼく」が互助グループで果たしていた役割を思い出せばいい。男たちはそうやって、他者を、いや機械をみつめ、自らの他者に向かう性欲を疎外する。テクストにおいて男の女性に対する性欲は対象としての機械へと誤配されているのだ。だからジェンダー的に見るならば、実のところ消費社会における自己疎外とは、男たちの性欲の精神視界からの排除によって成立する副次的な問題だと言える。性は本質に先立つ、となるだろうか。

おもい起こしてみれば、そもそもタイラーは映写技師だった。それに化学を得意とし、自ら石鹸や爆弾を製造する。タイラーがそれらを製造するとき、マーラは注意深く家から追い出される。そうして形成された爆弾はすべてを破壊し、人々を「絶滅」させる。苛性ソーダの火傷でできた男たちに刻まれたキスの跡は、男たちの孤独な性欲を象徴している。そして銃口が吐き出すものは、「大砲から発射される人間、地下ミサイル格納庫から発射されるミサイル、諸君の精液」だ。

「ぼく」、タイラー、スペース・モンキー……。機械とかかわる男たちはそれだけではない。おそらく、ビッグ・ボブもまた機械に性欲を絡みつかせるような形で男であることの痛みを抱えていた。ボブが通う精巣ガン患者互助グループの名は、「ともに男であり続けよう会」だった。だからボブの筋肉もまた何ものも寄せ付けない不動の機械のように強ばっているだろう。

離婚、離婚、離婚。ボブはそう言って、どこかのコンテストでポーズを決めた、Tバックのポージングストラップで股間をかくしただけの巨大な肉体が写った写真、一見したところ全裸と見えるボブが写った写真を札入れから取り出した。他人から見れば滑稽なだけかもしれないが、体脂肪が二パーセント程度になるまで贅肉を削ぎ落とし、利尿剤の作用でコンクリートみたいに冷たく固い肉体を作り上げ、目がくらむようなスポットライトと難聴になりそうなスピーカーのハウリングを全身に浴びながら、ステージ上で恍惚としているところに、「右腕を伸ばし、大腿四頭筋に力を入れて、静止」と審査員が命じる瞬間。

ボブは孤独で鎧のような筋肉のために離婚して妻子も失い、破産した。一度は結婚したボブは「独身者機械」に無縁ではないかという声もあるかもしれない。だがカルージュの言うように、「独身者機械のドラマは天涯孤独に生きる者のそれでなく、異性にどこまでも近づきつつ真に結びつくことのない者のドラマである。原因は貞操観念にあるのではなく、それとは真逆に、融点に至ることなく並行して荒れ狂う、二つのエロティックな情熱の葛藤にある」のだ。そしてボブは死に至る。

男たちの孤独な性欲のドラマ。それを見つめ続けることが重要ではないか。その瞬間を捉えなくては、おそらく「本当に欲しいものがわからな」くなる。女は機械に変わり、そして死に到達する。自分の名すら手に入れることはできない。だから『ファイト・クラブ』において男たちの悲しみや痛みをほどくには、彼らの、そして彼らを見る自身のありようがまた意識の過程に上げられなくてはならない。本当に欲しいものがごまかされていないか。自身の性欲を不当なやり方で排除しないために、そして他性と向き合うために。それが男たちの課題だと言っていい。

男の性欲とその宛先を見つめ続ける必要性を説いた。しかし最後に、もうひとつ付け加えなくてはならないことがある。そしておそらく、そちらの方がより根本な問題としてある。それは、女性の性欲を男性がどう見るかという問題だ。なぜならば、他性としての異性に向き合うなら、必然的に他者の性欲にもまた向き合わなくてはならないからだ。

テクストにおいて女たちの性欲は、男たちの性欲の誤配と同様に、ほとんど「ぼく」の語りからは排除され異なる方向に逸らされている。たとえば、住脳寄生虫感染症患者のクロエの唯一の望みは、「最後にもう一度セックスすること」だった。しかしそのクロエの欲望を「ぼく」は一蹴する。「だからどうしろと? こっちはただ困るしかない」。

クロエの欲望を「愛されること」ではなく「セックスすること」とわざわざ強調している語りに、「ぼく」の既成観念的な、あるいはセックスについての「正しい」欲望のあり方が透けて見える。その観念は間違いなく、「ぼく」の性欲と恋が分裂することになった原因でもある。「ぼく」は性欲を通して女性を愛するやり方を知らなかったのだ。

こうした「ぼく」の分裂した精神のあり方は、マーラにまで影響が及ぶ。マーラはタイラーに、すなわち「ぼく」の性欲に向かって告げる。「妊娠したい」「タイラーの堕胎児が欲しい」と。種の絶滅を目的とするタイラーにとって、おそらく子どもとは何の興味もないだろう。マーラに妊娠されても面倒になるだけだ。トイレの便器に浮かぶ「死んだクラゲ」のようなコンドームは、男たちの空虚な性欲というよりも、女性の性欲を排除した傲慢さを示している。だから男たちに『ファイト・クラブ』が示す最後のアポリアの突破口は、このテクストを女の性欲が賭けられた妊娠小説として読めるかどうか、その一点にかかっている(ちなみに映画では妊娠を求めるマーラのセリフは削除されている。そこにもまた問題は及んでいる)。

いくら困難に見えようとも、それを考えなくては男たちの悲しみや痛みの自省など吹けば飛ぶような「くず」な問題に過ぎないだろう。他者の性欲とは、つまりそのような問題と言える。


追記

『ファイト・クラブ』を底本に選択したのは、男性性のあり方を問いただしたい、また小説テクストにおいてその概念がどのように操作できるのかを追求したい、そしてマーラの妊娠への欲望を見つめてみたいとの考えを当初は抱いていたからだった。それが、本稿では男と言語や性欲の形象をめぐる問いへと変奏されていった。

読書会で最も多く議論が費やされたのは、男の性欲についてだった。たとえば、それは支配欲求やコミュニケーション欲求を含む多形的なものではないか? という問いかけがあった。本稿では主に『ファイト・クラブ』における男の性欲のあり方を女性との性交を念頭においた狭義の意味に限定することで、それが異なる対象へと誤配されていること、それに男たちの自覚が欠如していることの問題性を指摘した。その限りにおいて議論の整合性はとれていると考える。

しかし、『ファイト・クラブ』の読解がすぐに現実の私たちに自省的に照らし返される以上、自らの性欲のあり方を、そしてなぜ『ファイト・クラブ』では男たちの性欲は異なる方向へ水路づけられることがなかったのかを思考することは重要だと考える。性欲のあり方を考えるとは、まず自らの欲望の宛先がどこにあるのか、そして他者の性欲とどのように交渉できるのかを突き詰めることが倫理的事項として先決だと私は考えるが、その過程で性欲の多形倒錯性、また可塑性に気づかされていくのだろう、そうおもう。

読書会を終えて、このような議論を展開していくことにあたり、自らの関心の偏向性、または狭量性に改めて気づかされた。そうでしか生きることができなかったと、そして人生の上で迂路を経てやっとこのような議論を考えることができるようになったのだとおもっていたが、またそれがどれほど孤独であるかおもい知らされた。当たり前だが他者の欲望を照らすことはそのような自省を突きつけるからだ。本稿でも述べたとおり、それもまた一つの罠に向けられている。しかし、それを他者との交渉に開く過程で、どのような言葉を選べばよいか、それを考える機会を改めて与えられたようにもおもう。

私が参加したこの読書会は学生時代のサークル活動の延長線上で成り立っている。私は一度サークルを辞めようとおもっていた。だからいまもこの場に参加できていることをとても不思議なことのようにおもう。それにいま私が抱いている関心や問題意識の志向はこのサークル経験がほぼ中核となってできているが、それを当のこのような場で話すこともまた、不思議なことのようにおもう。しかし私がそのようなことを本当に話したいひとに向けて語ることはもうできないから、どうしても虚しさを覚えることを止めることはできなかったが、しかしまた別の他者に向かって自らの問題系を開くことの意義を先日は考えさせられた。このようなことを思考できる機会を与えてくれたその場に対して、改めて謝意を記したい。

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