目的地なく8km歩いたら、無目的で良いと思えた
無目的、無意味、無価値。
打ち消しの「 無 」
予定の ない 期間とか、自分のやることにはっきりとした理由が見つから ない こととか、
そういうのが苦手。
約8km、目的地のない神戸散策
つい先日、友人と会う約束があり神戸に。
いつもなら、
どこそこに行き、〇〇を買って帰る。
最短ルートで。
神戸や大阪は歩いたって距離がだいたい知れたもので、歩数計で距離を見ても、長くて3kmほどだ。
それとは反対に、自由にあっちこっちに行こう行こうと言う友人。
そんな彼女の「あっち行ってみよ」の声に対して、
いやいや向こう行ったらアーケードもないし暑いしさっき行きたい言ってたとこと真反対や、と思うけど言わない私。
「ちょっとぶらつこ」に対してぶらついて何もなかったらこのなんとも言えない沈黙の間をどうつないだらいいんや、と思い不安を感じる私。
ぐるぐる行っては引き返し、雑居ビルや商店街の一風変わった雰囲気のお店に入ったり、入らなかったりしているうちに、
しばらくして彼女の「ここ、曲がってみる?」という一声に、ええやん、と思う自分がいた。
その日は神戸の街を、
それも三宮周辺だけで約8km歩いた。
無目的でちょうど良い
どこかに行く時は目的地をある程度決めておきたくて、全くの行き当たりばったりは苦手だ。
自分の向き合っていることや
これから働くことを考える中で、
自分のできることの少なさ・自分がやる意味について考えだすと途方に暮れることがある。
誰かと話すときや会うときも、
相手にとって良い時間になるように考えて考えて、それでも盛り上がらなかったらどうしようかといつも不安に感じる。
目的があって、
しっかりと意味があって、
相応の価値をもつもの。
それが自分の中で大切なこと。どこかでそう思っている自分がいて。そう思いたくないと考える自分もいて。
そう書いてるうちにこの文章すらも、
何を目的に書いているのかわからなくなってきた。
目的なんかなくてもいいのかも。
とにかく、そう思わせてくれる友人との時間だった。
最短ルートの時には気づかなかったもの・見落としたものをたくさん拾い集めた。
いや、もはや拾い集めなくても8kmの中では勝手にいろんなものが飛び込んできた。
目の前の道を進みたい方向に進んでみたら、思いもよらないものに出会うこともあるし、なんか違ったなと思えばまた違う道を進めば良いのだと。
目的がないくらいが、ちょうどよいのかも。
打ち消さなくても、よいのかも。
noteも心が動いたから忘れないようにしておきたいってだけで、それだけで十分で、いつか自分が戻れる道を作っておくことなんだと思う。
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