名前とか、姓名判断とか、名前が変わる経験とか
沖縄は、日本だけど、半分日本じゃないような、外国で生活しているような気分になる時がある。
草花や木などの自然が東京よりも圧倒的に多く、道を歩けば、意識しなくても植物の緑が目に飛び込んでくる。
市場に行けば、内地では見かけない野菜があるし、知っている野菜も沖縄方言で全然違う名前で置かれていたりする。
最近はもう慣れてきてはいるが、
そういう所が最初はとても面白かった。
人は初めての物に出会った時、その物について「知りたい」と思う性質がある。
逆に知りたいという気持ちが湧いてこない時は、その対象に興味がない、という事だろう。
野菜や草花の名前を知りたいという気持ちは湧いてきたが、
同じく沖縄で圧倒的に種の多い虫については、名前を知りたいという気持ちがあまり湧かず、
正体がよく分からない虫は一括りに「謎虫」と呼んでしまっている。
名前を知る事は、対象との距離を近づける最初の一歩なのだ。
名前って、それ単体で色々な情報を含んでいると思う。
子どもの名前からも、親がどんな想いでつけたのか読み取れるし、親の価値観や人となりみたいなものが反映されているものだ。
ちなみに、私は子どもの時、
自分の名前が変わった経験がある。
母が姓名判断の先生に心酔した時期があり、
その先生によれば、私の名前の画数がとても悪かったからだ。
7歳の時、親のつけた名前から、
姓名判断の先生が考えた名前に戸籍上も変わった。
命名料として何十万かが親から先生に支払われたらしい。
それに、名前を変えるために、親は裁判所に何度も通って、変更を認めてもらったらしい。
名前が変わった時は母も喜んでいたし、私も「悪い」名前から「良い」名前になったと信じていたので、嬉しかったと思う。
でも、今振り返ると、親が一生懸命考えたであろう名前を、他人が考えた名前に変えるって、なんだか切ない。
その当時の母の何かに頼らないとやっていけない弱さや、1つのことを狂信する純粋さや、それらを生み出した母の生い立ちなどを思うと、
胸がきゅっとする。
自分が子どもの時に名前にまつわるごたごたを経験したせいもあったからか分からないが、
私は息子を妊娠した時、
息子の名前はとにかくシンプルなものにしたかった。
親の想いや希望を込めるより、
その子の存在そのものとか、
その子がもともと持っているものとかにフォーカスしたかった。
そして、これから始まる人生を、その子自身で色付けしていってほしかった。
だから、名前はその子の目印にすぎない、
シンプルで覚えやすければそれで良し、
というような考えだった。
結果、息子の名前はシンプルで漢字も簡単で、
音に関しては、夫の名前ととても似た響きのものとなった。
(一応、どんな意味のある名前なのか?と聞かれた時に、答えられる意味もあるにはある)
たまに似すぎて驚かれたり、初見の人が夫の名前か子の名前か、どっちの名前だっけ?
となる事態もあるが、
それでいいのだ。
ちなみに、息子の名前は姓名判断では悪い画数だ。
でも、それでいいのだ。
姓名判断を信じるならそれを大事にしたら良いし、
他に大事にしたいことがあるなら、それで良い。
私は自分の経験から、それで良いと思っている。
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