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【創作】じゃ、このへんで

じゃ、このへんで

九里宇ユミオ


 白亜のチャペルのホールは、男女の談笑が反響して複雑なざわめきに包まれている。
「りんごを2人で分ける時ってどうする?」
 その日も私は吟味されていた。
 騒がしい中でも目の前の彼女の声だけは聞こえるのは、きっとカクテルパーティー効果というやつだ。
「えっ、ナイフで…」
「いや、ここにりんごがあるとして」
 私は彼女の口元の微笑みと、どこか計算高い視線を感じた。私のスーツや身なりなどが一瞬でスキャンされたようだった。
 しばらく考えてから答える。
「君にかじってもらって、残りをもらおうかな」
「ふーん、食べさしするタイプね」
 私の人となりは、このような質問によって判断されるらしい。
 時には、ぶどうだったり、スイカだったり、マンゴーだったり。なぜ果物なのか分からないのだが、私には果物の分け方を質問するのが定番のようだ。
 隣の席の男もピザをどのように分けるか、似たような質問をされている。なぜ私は果物なのか。
「食べさしするってことは、兄弟いるでしょ?」
「えっ…」
 答えを考えようとして、彼女のドレスの胸元に目が行きそうになり、慌てて目を逸らした。そのまま視線をぐるりと巡らせて驚いたふりをする。
「妹かな〜」
 彼女は私の兄弟構成を当てにきた。次はきっと、兄弟構成から性格分析が始まるのだろう。面倒見が良さそうとか、優しそうだとか、そういった言葉がその先には待っている。この質問もバリエーションはあれど、何度もやり尽くしたものだった。
 今日も『ハズレ』だ。
 彼女の派手な格好と、視界の端に捉えた胸元の広がり、そしてグイグイ詰めてくる話ぶりから、カカア天下なタイプだと察した。胸は関係ないか。
 この手の女性には尻に敷かれる未来しか見えない。私は気が弱いのだ。
 本当は兄弟などいないが、もうどうでもよくなった。この『婚活ゲーム』を楽しむほうに頭を切り替え、彼女が求める男性を演じることにした。昔からコミュニケーションをゲームに置き換えることは得意だった。
「よく分かりましたね。歳の離れた妹が2人います」
 彼女の望みそうな情報を差し出す。
「やっぱりー! なんだか大らかな感じするんだけど、面倒見がよさそうというか、下に女兄弟いる感じがするんだよね!」
 そう言って、彼女はテーブルのウーロン茶を一口飲んだ。グラスの下にはチェック柄のハンカチがある。私が水濡れ防止にと差し出した、Gをモチーフにした有名ブランドのものだ。彼女の視線がGのあたりをしっかり捉えたのを感じる。私に面倒見が良さそうと言いながら、やはりGとか書いてあるやつが気になるのだ。黒いGは嫌でも金のGは歓迎なのだ。
 私は「よく言われます」と照れ笑いをして頭の後ろをかいてみせた。
 大抵の兄たちってのは少ししっかりしてそうで、わりと自由奔放かつ少し抜けたところもあったりするものだろうか。兄弟がいない私は、今日は妹のいる友人の真似をしている。
「それでいい歳にもなってきたから、妹に押されて婚活頑張ってるわけね〜!」
 彼女は続けた。「そんなとこです」と適当に相槌を打つ。
 それから彼女の私に関する推察トークが中心になり、私は彼女の望みそうな答えを繰り返していった。彼女の反応は妙にテンポが良すぎて、どこか芝居がかっているようにも感じたが、深く考えないことにした。
 すっかり上機嫌の彼女は、私のことを全て分かったような態度を取るようになってきた。やっぱりこの女性はハズレだ。この短い時間で私の何が分かるのだ。
 ホールにいた運営のスタッフが「残り3分です!」と会場の婚活ペアたちに告げた。
 そろそろ、この辺で切り上げるのが婚活ゲームの楽しい終わり方というところだろう。ハッピーエンディングだ。
 私がスタッフの声に気を取られスタッフの方を見た時、彼女が私の胸につけられたカードをちらりと見たのを感じた。私は絶好のタイミングを得たと思った。さっきから私も彼女の胸元が気になっていたのだ。ここで私も彼女のカードを確認しても違和感はないはずだ。
 ドレスの胸元が広く空いているせいで、大きな胸——いや、谷間が見えていた。私の誠実性が「そこを見てはいけない」と警告していたが、ずっと気になっていて仕方がなかった。
 初めは、このような妖艶な、いや艶美な……なんと言えばいいか、嫋やかなボディの女性が現れると胸元を凝視してしまっていた。しかし、私の視線を感じた女性は当たり障りのない質問に切り替えたり、嫌な態度をとることが多かった。私の視線とはそれほどまでに正直だったのだ。
 幾重の失敗を重ねて、やっと辿り着いた境地が「誠実そうな男を演じる」ことだった。
 一度1万円の婚活パーティーは決して安くなかったが、婚活をクリアする要素を掴み始めた私は、このゲームを楽しむようになっていた。
 初めはあまり好みではないタイプから、徐々に自分の好みのタイプの女性へも攻略を進めていった。
 その中で今日は優位にゲームを進めている感触があった。攻略法が確立されてきた証拠だ。
 そして、ついに向こうが私のプロフィールカードに興味を示した。私のことを本格的に吟味する女性は、きまって最後に私のプロフィールカードを確認するのだ。少なくとも向こうからアプローチを受ける時は、ゲームの終盤に差し掛かる時だった。ここまで来れば勝ちは確定なのだ。
 完全に、彼女は私に食いついたなと心の中で勝ち筋が見えた。あとは流れに乗るだけだ。
 加えて今日は同時に胸元を確認するチャンスも得た。これは棚ぼただった。
 今までの苦悩の日々に感動の涙をグッと堪えて、彼女の顔を見た。
「職業は…不動産? なんだろ、建売りとかかなー?」
 彼女は私の『としや、36歳、不動産業、登山』のプロフィールカードの職業を読み上げた。読み上げ方にわざとらしさを感じるが、それはどうでもよかった。私は悦に浸っていた。さあ、堪能するが良い。私の完璧なプロフィールを。
 青山一丁目から徒歩5分のチャペルで行われるこの婚活パーティーは、事前にマッチングされたペア同士3組の男女をシャッフルしながら行われる。
 お互いの事前情報は運営だけが知っているが、私たちは誰とマッチングしたのか知らずに、10分のトークを3人と相手を変えながら行う。
 そして、いま彼女は自分が希望したであろう人物の印象を私に重ね始めている。
 この胸のプロフィールカードは名前、年齢、職業、趣味の順番で情報が書かれている。
 婚活の運営に伝えたのは、それ以外に簡単な『性格プロフィール・兄弟構成・学歴・年収・結婚歴』がある。秘匿された部分はマッチング希望として出されるが、会場では伏せられるので、そこがこの婚活パーティーの味を出している。
 おそらく、職業と兄弟構成、望む人柄が彼女の中で一致したのだ。
 本能に抗い、やっと確認できた彼女の胸元のプロフィールは『なおこ、32歳、航空、旅行』だった。旅行と航空関係の組み合わせは、何となくCAを連想させる。
 CA、旅行——私の希望した職種だ。あとは年収。私に見合うのだろうかと気になった。この距離感の遠慮のなさは、兄がいるのかもしれない。
 しかし、32歳。お互い、世間で言ういわゆる「結婚適齢期」を過ぎ始めている。
 私の希望は20代半ばだったので、内心がっかりしたが、胸元の深淵は私を誘っており、強烈な催淫作用で判断を狂わせ始めていた。(勝手に狂っているだけだが。)
 彼女は微妙に笑みを浮かべながら、私の反応を観察しているようにも見えた。
 なんだかそれが気になってきて、彼女に少し意地悪をしたくなった。本当は建売りではなく賃貸仲介だったが、年収の見栄も張りたいので話を盛ることにした。
「建売り…近いんですかね。オフィスビルやマンションの売買仲介をしています」
「へー! すごい! エリアはどの辺なの?」
 なおこと書かれた名札を揺らして、彼女は前のめりになって私の話に食いついた。名札のあたりでは大きく膨らんだなおこ——いや、胸も揺れる。私はまた目線を外した。そうか、これが彼女の作戦なのかもしれない。
「えっと……このエリアは辺りでして……」
「港区?! じゃあOX不動産知ってる?!」
「そこはお得意先ですね」
「えー!! 私、そこでマンション仲介してもらったんだよ! なんだか縁感じちゃう!」
 彼女のリアクションは大袈裟で、決めつけが激しい。なおこが大きい。私はなおこが気になってきた。なおこ。いやいや、胸は関係ないか。
 彼女の最初の質問から人となりはハズレかと思ったが、前言撤回する。昔からこういう押しの強いタイプは嫌いじゃなかった。認めたくなかったのだ、この日、この瞬間まで。私の中の新しい自分が産声を上げるなら今日なのだ。私は産まれたての赤ちゃんになったのだ。今日が私の誕生日だ。0歳だ。おめでとう、私。
 しかも、なおこは高所得だ。人は中身じゃないなと思った。立派なママを持ち、立派なママになれるかどうかだ。
 いけない、冷静さを失ってきている。不動産業に勤める者として、この辺りの相場は把握している。私も探りを入れることにした。
「この辺のマンションですか?」
 同時に彼女の右の口角が少し上がるのが見えた。ハッとした。つい、質問をしてしまった。今までの恋愛から一つの教訓を得ていた。
 恋愛は興味を持った側が主導権を譲ることになってしまうのだ。彼女もきっとそれをよく理解しているのだ。
 残り3分のコールがされ、閉会が近づくゲーム終盤の主従関係は、どちらが最終的に興味を示したかによって決まる。ここまで主従関係にも配慮しながら順調に進んできたのに、最後の最後にとんでもない失態を犯してしまった。
「そう、この辺のマンション」
 そう言って微笑む彼女の微笑みには、もはや後光が刺して見えた。すごい。港区のマンションは一般企業なら管理職クラスでやっと手が届くレベルだ。
 さらに、私が何か言い淀んでいると声のトーンを落として加えた。
「ルームメイトももちろんいないよ」
 何か意味深に一人であることを強調したつもりだろうが、これはもう誘われている。
「明日は朝から予定があるので」
 私はこの後は早く帰らないといけないことを匂わせて応戦した。男の意地だった。この誘いに乗らない手は無かったが、せめて一矢報いたかった。
「そうなの? じゃあ、としやとは無理かあ」
 今度は彼女が私に馴れ馴れしく話しかけている上に、他の男を誘うかもしれないという釣り針に気づいた。ダメだ、今日は試合には勝ったが勝負には負けた。この釣り針は飲んでも負けるし、飲まなくても彼女なら、本当にどこかへ行く迫力があった。私は心が折れそうだった。いや、戦いはまだ終わっていない。しかし、ぐっと拳を固めた。まだ3分もある。何とか形勢逆転をしないといけない。こちらも匂わせるのだ。匂わせには匂わせのエアーファイト、空中戦に持ち込むのだ。
「なおこさん、明日は朝から予定がありますが職場はこの近くです」
「ふーん、朝まで居たいってこと? 私そんなに軽く見えるのかなあ」
 話が早いが、切り返しも早かった。彼女は下手な演技でいじけてみせる。度々みせるこのわざとらしさがさっきから妙に引っかかる。
「いえ、他の方と約束があるのなら良いのですが、この近くにバーがあります。一杯だけいかがですか?」
 私はつい出してしまった本性を利用して、必死に食い下がった。
「一杯だけなら良いけど、どうしようかなあ」
 ちらと他の男に視線をやった。きっと見たのは会場のドリンクを給仕するウェイターの横ではないだろう。彼の隣に、チャコールのグレンチェックに、バーガンディのネクタイを締めた、七三分け。絵に描いたような「シゴデキ」がそこに居た。
 彼女の視線が一瞬そちらに向かったのを見て、胸の奥がざわつく。さっきの彼女の「としやとは無理」がリフレインした。
 私は目線を外した彼女の胸を一瞥してから、腕時計が彼女から見えるように腕を突き出して時間を確認した。こんな時のために用意したオメガのスピードマスターだ。やり過ぎないギリギリの範囲の所得アピールだと我ながら誇らしかった。
「21:58ですか、いけますよ! あそこのマスターとは顔馴染みなんです。変な風にはなりませんから!」
 押しを強めた。21:58は、あと2分で婚活パーティーが終わることも示していた。ここが最後の一押し、決め手だ。
「へぇ、そうやって行きつけのバーに連れ込むのがとしやの常套句ってことかなあ」
 彼女は私のスピードマスターをちらと見たが、あっさり私の突貫をいなした。もう丸裸にされた気持ちになった。だめだ、もう全てが通用しなかった。空中戦も私の敗北だった。せめて丸裸ついでに全技術を解放してしまおうかと脳をフル回転させた。
 彼女は長い髪の端をくるくる回しながら枝毛の確認を始めた。目線はもう、私にはなく、シゴデキに向いている。彼の奥では会場スタッフが、なにかを確認してから頷いて腕時計を確認した。もう閉会なのだろう。
 何がいけなかったのかと後悔を始めた。
 何がいけなかったのか、何がいけなかったのか、何が何が何が。いや、何もいけなくなかったはずだ。悪かったのは組み合わせ、きっと彼女の方だと思い始めた。しかし、このパーティーが終わるまではギリギリまだ戦える。まだブザービートは鳴らされていない。鞄の中にあるタワマンのワンルームのチラシを思い出した。私は諦めが悪いのだ。
 そうだ、あれを使えば、何とかなるかもしれない。あれをプレゼントすれば! あれを!
 ところがその時、
「それでは閉会します!」
 と先ほどの会場スタッフが閉会の宣言をした。
 まさかと思った。さっきまで時間は21:58で、まだ2分も経っていないはずだ。もう一度、時計を確認すると21:59になったばかりだった。
「残念! あとちょっとだったのにね。でも楽しかった! このチャペルの近くのカフェでお茶でもして帰ろうかな」
 そう言うと、なおこはテーブルから立ち上がり、小さく礼をして立ち去った。私も小さく頭を下げた。瞬間に、涙が込み上げてくる。
 婚活パーティーは、ストーキング防止のため、先に女性が退席をして10分の時間差で男性陣が解放される手筈になっていた。
 その間は自由時間である。
 私は飲み放題のドリンクメニューから角ハイボールを注文した。そして、角ハイボールを持ってきたウェイターに時間を尋ねてみた。
「すみません、いま何時ですか?」
 ウェイターは少し意外そうな顔をしてから、腕時計を確認すると、
「22:03ですが?」
 と言った。私の腕時計も22:03であった。となると、会場スタッフの時計が進んでいたことになる。あと一歩ということだった。ゲームに必要な最後の要素、運が足りなかったのだ。
 ハイボールを受け取ると「少し待って」と伝え、一気に飲み干した。
「ハイボールおかわり!」
 悔しさのあまり、ヤケ酒を決め込むことにした。
 認めたくなかったのだ。
 婚活がうまくいかないのは、自分の下衆な心根であることをよく分かっていた。
 裕福な家庭に生まれ恵まれた環境だったが、それゆえに学生に上がると怠け癖がつくようになっていた。親からは充分な小遣いがあったので、クラスで優秀な生徒からノートを買い、足りない点数は再テストをさせてもらうなどして教師から融通してもらってきた。両親は家を空けることが多かったので、結果だけを見て褒めてくれた。
 今の大手不動産会社に入社した時もそうだった。父のコネを最大限に活かし、裏口入社を果たした。
 入社してからの成績は、同じような営業方法で縁故を広げて不動産賃貸契約を結び、上々であった。
 コミュニケーションゲームは金が全てなのだと思った。その点、私は環境トップだったし、実際のコミュニケーションもトライアンドエラーから適切な回答を導き出した。環境と金の組み合わせだ。金の使い方も板についた。程よくチラつかせ、最後の押しで金を出す。人はまだ見ぬ期待感に弱い。それが金であれば、涎を垂らして釣り針に食いつく。
 これが私なりの戦い方であり、処世術だと思った。
 使えるものは使い、のし上がるのだ。
 そうやって来たのだが、いまいち心に引っ掛かるものがあった。女性にはとてもモテたが、心が通う感覚を得ることができなかった。
 金を使わずに近寄って来た人もいたが、何となく父がちらついた。いつしか裸一貫で成り上がった父にコンプレックスを感じ始めた。
 それから婚活パーティーで研究を重ね、6年が経った。私はいわゆる“良い歳”になってしまった。結局、金を使ったコミュニケーション術を捨てきることができなかった。
 正月に実家に帰ると父から「そろそろ結婚とか興味ないのか」と聞かれることが増えてきた。その度に今は仕事に集中したいと話をはぐらかしてきたが、同じ言い訳を毎年するのももう苦しかった。
 それなりに会社では出世したのでタワーマンション住みではあるが、郊外の低層階。港区に出てきては父所有のワンルームを根城にし、女性たちをはべらせては別れるのを繰り返してきた。
 そろそろ妥協が必要なのかもしれないと思い始めたところだった。これを最後にしようと思い今日の婚活パーティーに来た。
 そこへ、航空系でスタイルの良い女性。
 とうとう今までの使い尽くされた打算的な思考から抜け切ることは出来なかった。それでも自分を騙し冷静さを保ちながら途中まで彼女と会話を進めてきたのに、最後の最後で胸に気を取られてしまった。
 いや、最後の最後は言い訳だ。最初から気を取られていたのだ。自分にまで言い訳をするなんて情けない。
 スタイルの良く、元気の良い母のような女性を本能的に求めるようになっていた。
 その母のイメージに、なおこを重ねてしまった。
「お疲れ様です! それでは男性も解散になります。今日はありがとうございました!」
 女性が解散してからくだを巻いていた私は、たったの10分足らずで3杯目のハイボールを飲み干し、千鳥足でチャペルを後にした。
「たしかこのチャペルの近くのカフェ……」
 なおこの言い残したフレーズを自分で呟いた。
 自分のバーに誘い込む鉄板コースは失敗したが、なおこから明確なヒントをもらっていたことに気がついた。チャペルの周りをきょろきょろと見渡す。
『Cafe de Peche』
 カフェ・ド・ペシェ? 幾何学模様の白亜のビルに挟まれた南フランス風の小さなカフェを見つけた。
「これか?」
 ペシェは確か、魚という意味だ。ちらつかされた釣り針を最後まで飲まなかった間抜けな自分に、お似合いのバーだと思った。酔った足のまま、カフェの扉を開けた。
「まだやってますか?」
 扉を開くと、そこは円卓が2卓とカウンターに4席だけのこぢんまりしたカフェだった。
 カウンターのマスターは優しく微笑み、
「いらっしゃいませ。空いてますよ。こちらにどうぞ」
 と、カウンターに1人だけいる女性のほうに手のひらを向けた。
 なおこだった。
「としや! おそーい!」
 なおこはさっきのドレスにストールを羽織っていた。彼女の前にはカフェラテが置いてある。
「お客様、何かお飲みになりますか」
 なおこの手招きに従うまま、彼女の隣に座った。彼女の最後の釣り針に心がざわつきながら共にメニューを確認する。カフェだが夜はバー営業もしているようで、ワインやカクテルの酒類も扱っていた。
 回らない頭で白ワインのリストからちょっと通に見えそうなものを見つけ、
「リースリングのボトルを……」
 と言いかけて、
「いや、カルアミルクください」
 と言い直した。
 もう格好をつけるのはやめようと思った。彼女からすれば私は丸裸なのだ。いまさら行儀良くしたところで仕方がない。
 なおこの方を見ると彼女はニッと笑った。
「やっぱり私の見込んだ男だね! 素直じゃないんだから!」
 相変わらず彼女の見透かした態度が鼻についたが、悪い気はしなかった。さっきよりリラックスした様子の彼女は、暗いバーでは輝いて見えた。
 それから腕時計を外し、自分が本当は不動産賃貸であることや、独りっ子であることも打ち明け、ついには生い立ちまで全て吐き出してしまった。なおこはとても聞き上手で、私の話をうんうんと相槌を打ちながら聞いてくれた。
 初めて誰かに心を開いたような気がした。
「なおこさん、今日はとても楽しそうですね。」
 マスターが私たちが会話にひと呼吸入れていると割って入ってきた。
「やだ、マスター。私はいつも通りだよ。」
なおこが私から目線を逸らして照れ隠しをした。
「そうですかねえ。でもすみませんが、そろそろお店閉めないといけないんです」
 4杯目のカクテルを飲み終えた頃だった。お店の時計は1時20分を回ったところだった。私が曖昧な返事をマスターに返すと、
「としや、大丈夫? タクシー呼ぼうか?」
 と心配をしてくれた。彼女のママ的な優しさに甘えそうになった。だめだ、すでにママみは充分味わったのだ。これ以上は大人の男としてのプライドが許さなかった。
「いや、いい。なおこの方こそ大丈夫? お手洗いに行っておいで。ここは任せて」
 と言うと、勘定は見ずにマスターにクレジットカードを渡した。レシートを持ってくると、マスターが私にだけ聞こえる声で、
「なおこさん、よくここに来るんですが、以前は心を閉ざしていたんです。」
 マスタがーグラスを拭きながら遠い日のことを思い出すように続ける。
「辛い過去があるようで、悪い男に捕まって泣いていたこともありました。でも、今日はあなたといるときの笑顔は初めて見ました。なおこさんをよろしくお願いしますね」
 と言った。
 彼女には深い傷と過去があったのか。彼女の今まで見せた下手な芝居は、そういった過去の傷を隠すための仮面だったのかもしれない。そう思うと彼女の打算的な態度に対する疑問は解消されてきた。彼女はあえて、わかりやすく演技を見せることで男を吟味してきたのだろう。でも、今はもうそんな演技はない様に思った。
 きっとここは彼女が唯一本音になれる場所なのだ。私は彼女に必要とされているのだ。なおことの関係を大事にしなくてはいけないと思った。
 トイレからなおこが戻ると、
「それじゃ、帰ろっか!」
 と、なおこは私の腕に抱きついた。私はそんな彼女が愛おしくなった。そして、今までゲームを攻略するように彼女に接していたことを恥ずかしく思った。マスターに挨拶をして、私となおこは店を出た。
「うち、寄ってく?」
 お店を出てタクシーを拾うため青山通りに向かう途中、なおこは、いじらしく尋ねた。二人の間に本物の空白が漂った。さっきまでなら、このいじらしさが試されているように感じたが今度は違った。
 時々通り過ぎる回送のタクシーのヘッドライトが彼女の瞳を蠱惑的に光らせる。私の腕にかかる、なおこの胸の柔らかさに鼓動が早くなるが、マスターの言葉を思い出し、なおこの腕を優しく解いた。
「大丈夫、ありがとう。じゃあ、この辺でタクシーを拾って帰ろうかな。また会えると良いんだけど」
 と告げた。
「また会ってくれるの? 優しい。こんな人、初めて。だってほら、私ちょっと派手だし、こんな見た目じゃない? だから身体目当ての人が多いんだけど…」
 なおこの目が潤い出す。続けて、
「実際それしか取り柄ないし…」
 と言いかけたので、
「そんなことない! 確かにちょっと胸元が…いや、スタイルは良いけどさ! 僕らきっと良い関係になれる!」
 私はその続きを言わせないようにすぐに遮り、目を泳がせながらも懸命に誠実さを主張した。
「ふふ、正直な人。ずっと目線は感じてたけど、とりあえず凝視はしてないから合格。じゃあ、また会おうね」
 彼女はそう言った。私はタクシーを拾おうと、彼女は私を笑顔で送り出してくれた。

(なおこ)

 なおこは、としやを見送ると、大きく息を吐いた。
「ふう、見込んだ通りボンボンっぽいし、ちょっと純粋すぎるけど良いかな。そろそろパパ活も辞めたいしね〜」
 チャペルのスタッフには合図を送って早めに時間を切り上げてもらったし、としやのあの様子ならマスターも多分私の話を伝えた。
 ゲームは始まる前に終わってるのよ。
 そして、なおこはキープ中の男性達のことを思い浮かべ、少し考えた。
 としやはなおこの好みのタイプではなかったが、彼に対しては自分の方が有利な立場にいけそうだし、家も裕福そうだ。いまいちなら、また乗り換えれば良いかと思った。そろそろ自分もこの辺で折り合いをつける頃だろう。
 それから少し歩いて呟いた。

「じゃ、このへんでいいか」

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