【創作】激辛! 麻婆豆腐の罠〜ドラゴンマックス編〜
【前編】
平坦な人生はつまらない。
だから僕は時々、困難に自らを投じることにしていた。
「カラサ、どうする」
陳麻家の店員が半分イラついたようにしながら僕に聞いた。僕は迷っていた。すでに最高の辛さの担々麺を食べたばかりだったからだ。
腹はゴロゴロと雷のような音を立て、冷や汗は止まらず明らかに身体が悲鳴を上げている。
それなのに僕は手を挙げて、麻婆豆腐を頼んでしまった。杏仁豆腐と間違えたのだ。
すぐに間違えには気づいた。
カラサ、どうする
って聞かれたからだ。この時点で、注文を訂正すればいいのに彼女の苛立ちを感じ取った僕はすくみ上がってしまい、とても注文を訂正できるような気持ちにはなれなかった。
たった数秒前の後悔が何年も昔の過ちのように感じ、そしてそれを重く後悔していた。その間、約2秒もないだろう。僕はこの数秒で何年間もの長い時を過ごしているような思考を巡らせていた。
「じゅ、」
あろうことか、20辛まであるうちの10代を発音しかけた。そしてそれに対して店員の眉がグッッと吊り上がるのを感じる。
「じゅ?」
店員が足ぶみをして、復唱するから僕は焦ってなぜか注文をし直す。
「に、にじゅ」
なぜさっきは訂正出来なかったのに辛さになった途端に訂正出来たのか、ことが悪い方向に進むのを感じる。
「にじゅ?」
聞き返す店員の表情がさらに険しくなってしまった。両手を腰に当てて明らかに嫌そうな顔をした。
つい目を逸らすと壁に貼られた麻婆豆腐のポスターが目に入ってきた
『麻婆豆腐フェア開催中! 四川を丸ごと火の海に落とした 超激辛的煉獄灼熱辛 実施中! 〜ドラゴンマックスにあなたは勝てるか〜(完食で一万円分の商品券進呈)』
誰に向かって宣伝しているのだか分からない煽りが目に飛び込んできた。
「にじゅ?」
店員がもう一度、僕に尋ねる。
「こ、これで」
僕は根負けして、ポスターを指差した。ポスターの下には白い付箋があり「達成者0」の文字が見える。その瞬間、店員の顔が一気に朗らかになった。
「謝謝(シェイシェイ)!」
そう言うと両手を顔面の前で合唱して去っていった。感謝されたことだけは分かった。きっといまフェア中で、細かい注文が面倒なのだろう。
同時に何をしてしまったのだと強烈な後悔が僕を襲う。ここまで5秒もなかっただろう。たったの数秒の間で何度、判断を変えてしまったのか。後戻りするタイミングはいくらでもあった。
厨房の方から
「ドラゴンマックス入りまーす!」
という流暢な日本語が聞こえる。それだけ何度も練習したかのような流暢さに僕は腹が立った。しかし、その怒りとは裏腹に、実際には僕の腹はゴロゴロォ……と情けない音を立てる。反射的に席を立とうとしたが、
「ドラゴンマックスだって」
と店内がざわめくのを感じて中腰になってから席に座り直した。もうだめだ。いま立ち上がったら敵前逃亡と見做されるだろう。厨房からは「入れすぎヨ!」「あの人、担々麺食べた。これぐらいがいいのヨ!」と、半分遊びのような笑い声が聞こえる。
冷酷な拷問官はきっと拷問に慣れ始めると、きっとこのように拷問を楽しんでいたのだろう。僕は拷問を前にする異端者のように震え上がる。すでに担々麺で激痛を抱えている僕の腹は何度も『ここから逃げるべき』だと叫んでいる。
「お待たせしました! 麻婆豆腐 超激辛的煉獄灼熱辛 ドラゴンマックスです!」
店員が小躍りしながら麻婆豆腐を持ってきた。22cmの大皿に乗ったソレは、中央に10ほどの赤唐辛子が墓標のように建てられ、白米の土手の隙間を埋めるように赤黒い火山流が、いや麻婆豆腐が流れている。
「特盛! オマケね!」
余計な気遣いにさっき食べたばかりの担々麺が逆流しそうになるのを感じる。
「おお、すごい」
「チャレンジャー」
それを見た他の客がざわめく。
「あれ見たことあるけど、救急車呼びかけてたよ」
「火事が起きるかも知れない。消火器を用意しろよ」
と冗談を言う者もいる。僕もそちらに回りたい。
いたたまれない気持ちになりながらレンゲをとり、
「いただきます」
と言った。
店員はサイドステップをしながら僕の様子をうかがっている。そんなに見たいか、この世の地獄を。
恐る恐るレンゲを麻婆豆腐に差し込むと、ラー油のオレンジ色の汁が中心から溢れ出る。挽肉の刻みにまとわりついた赤黒い液体が不気味に揺れる。
口に近づけると、味より先に臭いが鼻を突き抜けた。
な、なんだこれ。辛味というより、痛み。まだ口に入れていないのに目の裏側が痛い。五感全体で分かる。あんまりここでレンゲを止めておくと口に入れられないとすぐ分かる。僕は一気にレンゲの先を口に放り込んだ。
刹那、視界が暗転した。
ーー終幕。
【後編】
・
・・
・・・
・・
・
「はっ」
僕は息を吸い直した。一瞬、人生の暗幕が落ちたような気がした。全身が痛みと痺れでプルプルと震えている。レンゲが麻婆豆腐の皿の上に落ちている。きっと手を離してしまったのだ。
「すごい」
「やべえ」
周囲の驚嘆と、店員の満足げに微笑む。我に帰ると、火山流に飲み込まれかけているレンゲを抜き取りナプキンで拭いた。それから、無心で口に運び続ける。ここで辞めたら二度と麻婆豆腐を進められない。
「まずいネ! 誰か彼を止めるヨ!」
店員が慌てる。難攻不落のドラゴンマックスにかぶりつく僕は狂気のドラゴンスレイヤーと化していた。
「うぅええお! あああ! いえおお!」
半分、騒ぎになる店内に混じって、声にならない謎の呻き声を上げながらグイグイと喉に押し込んだ。ドラゴンマックスが体内に押し込まれるたびに、食道を始めとする消化の通り道が熱を帯びる。今まで意識したことのなかったが、僕にはちゃんと消化器官があり、喉から胃までが灼熱に焦げ付く。
「うおおお! あああ!」
両鼻から鼻水が滝のように噴き出る。鼻水もろともレンゲに麻婆豆腐を次々に運んだ。表層の赤黒い部分が終わると、今度はもっと黒い部分が出てきた。牛肉のひき肉だろうか。なにげに贅沢な内容だと冷静な頭が少し残っていた。
「あぇあ! あぇぁ!!」
周りの視線を顧みず、喉に突っ込み続ける。面白がってスマホで動画を撮る人も出てきた。
「これ、本当に完食するんじゃないか」
「嘘だろ。消火器が要らないだと」
他の客が思い思いに感想を言い合うのが意識の端で聞こえる。耳も遠くなってきた。
黒い部分を白米と混ぜてるとき、全身の震えとともに涙が止まらなくなった。昨日、冷蔵庫にあった妹のプリンを勝手に食べてしまったことへの懺悔の念が浮かび上がる。今までにしでかした狡い悪事が走馬灯のように浮かび上がった。
「泣いている」
「ああ、僕らの代わりにきっと泣いているんだ」
さっきまで笑っていた客や、慌てていた店員も泣き始めた。鼻を啜る音が聞こえる。
そのとき、合いの手に食べていた白米を食べ尽くしてしまった。担々麺ですでにいっぱいの腹が過積載で爆発寸前だったが、白米が地獄のオアシスの役割をしていた。でんぷん由来の甘味が、いままでこの業火をやわらげていたのだ。
「み、みじゅ!」
苦し紛れにやっと発音できた言葉を店員が聞き取る。
「だめね!」
「なじぇ!」
店員がポスターを指差す。
止まらない涙でポスターの字がよく見えないが『挑戦中はほかの食事や水は禁止」のような文字が見える。
「ミズ、キンシ! でも挑戦やめるなら、あげる」
「うおおおお」
僕は咆哮した。もうこのまま突き進むことにした。これは贖罪なのだ。人生には困難が必要だ。そして、いま僕は最大級の困難に直面している。その手応えを全身で感じた。これを越えれば何かが生まれる。そう思った。
「まさかドラゴンってこういうことだったのか」
「挑戦者がドラゴンのようになっている」
他の客が口に手をあて驚いている。そして誰が始めたのか口々にドラゴンコールが始まった。
「ドラゴン!」
「ドラゴン!」
「ドーラゴン!」
もはや耳が遠くなってきていて、騒然とする店内は頭の中で轟音として響く。店員が腕組みをして視線をこちらに向けるのを感じる。僕はナプキンで涙を拭うと彼の方を見た。もうあとちょっとで麻婆豆腐が終わるのに余裕の笑みだった。おかしい。なぜだ。
困惑と不安の中で麻婆豆腐の豆腐をすする。青唐辛子と、花椒のホールが口の中に傾れ込む。この世の醜悪を全て集めたようなその液体に失禁しそうになる。
「・・・サン」
何かが呼ぶ声が聞こえる。それは赤ちゃんのころに僕を優しく包んでくれたような聖母の慈悲めいた声だった。
『ああ、おかあさん。ぼく、こんなになったよ。ねえ、見てる? こんなになった』
とまだ生きている母に遺言のようなものを心で呟く。
「オキャクサン」
肩を叩かれ、ハッとした。その間はわずか数秒だろう。僕は意識を失いかけていた。
「オキャクサン、だいじょぶ? 今なら杏仁豆腐、無料であげるネ」
僕の心は強烈に揺れた。地獄に舞い降りた天使。
店員が手に持った更には純白の女神。この世の救済。杏仁豆腐が輝いている。その艶やかな肌は店のライトに照らされて、私を食べてと誘っている。
「あぁあ」
声にならない声が出る。あと一口で完食の麻婆豆腐も『もう諦めなよ、よく頑張った』と言っている気がする。
「騙されちゃだめだ!」
「やめろ!」
「どうして!」
「ドラゴーーーーン!」
朦朧とする意識に他の客の思いと悲鳴にも似た叫び声が届く。
「おね、おねがいしす」
「はい! 杏仁豆腐です!!! ドラゴンマックスチャレンジ失敗!」
店員は、僕に杏仁豆腐と水をさしだした。
店内に酷い、とか悪魔! とか罵詈雑言が響き渡った。さっきまでの天使のような微笑みの店員が、悪魔のような笑顔に急変した。嬉しそうにぼくの麻婆豆腐を下げる。
僕は止まらないよだれを袖で拭きながら杏仁豆腐にかぶりついた。
あの時の麻婆豆腐の味はもう思い出せない。しかし、杏仁豆腐は敗北の味だった。