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【創作】魯肉飯ルーローファン? それともルーソーファン?

食欲をそそる香辛料の香りと、豚肉を炒める鉄鍋のリズムが聞こえてきた。
そのときぼくは、台湾のことをろくに調べもしないで『北區』という未開の地に流れ着いていた。台北ならよく耳にしていたが、台南市の北側に位置する『北區』は完全に謎だった。
「どれにするの」
鉄鍋から大皿に惣菜を移しながら店主が、注文を確認するようなことを言った。
ぼくは一番目立つ赤い看板を指差して、うろ覚えの中国語で
「これください」
と注文をする。
彼が準備する間何となくカウンターの大皿を見た。日本ではあんなに定着している中国料理も名前を伏せられるとこんなにも異国情緒を感じるとは思っていなかった。大皿にはエビチリのようなものや、海鮮のあんかけなど、名前の定かではない食べ物が盛られている。どれも見慣れてるのに料理名の確証が持てない。
「あいよ!」
日本語とそっくりな表現に多分同じ意味だろうと思った。
彼が乱暴に置いたその丼を見て、
「ルーローハン?」
と聞き返すと
「ルーソーファン」
と無愛想な返事が返ってきた。
「ルーソーファン」と返されたその響きに、ぼくは何か別のものを期待していた自分に気づいた。あの聞きなれた「ルーローハン」ではない。それがどれほど微妙な違いであれ、ぼくにはその「ソウ」が一種の異質感を醸し出しているように思えた。
店主がどっしりした手つきで、ぼくの前にその「ルーソーファン」を置いた。湯気が立ち上り、香辛料の香りが鼻腔を刺激する。見た目はルーローファンと間違いなく同じだ。丼いっぱいのごはんに、豚肉の煮込みが盛られている。それでも、名前が少し違うだけで、ぼくの中で何かがずれていく感覚があった。
「どうぞ」というようなことを言って店主が食事を促した。彼のせっかちさにこの国の国民性を勝手に当てはめる。
箸を手に取り、一口運ぶ。味は、もちろん美味しい。だが、妙に強い八角の香りが口の中に広がった瞬間、ぼくは少し驚いた。日本で食べていた「ルーローハン」よりも香りが鋭い。これが本物なのか?それとも単に、ぼくの記憶が勝手に脚色していたのか?
隣のテーブルでは、地元の人らしい中年男性が、ぼくをちらりと見て微笑んだ。何かを言おうとしているようだったが、言葉が通じないと悟ったのか、すぐに視線を自分の皿に戻した。その笑顔は、ぼくが台湾について何も知らないことを見透かしているようだった。
ぼくは再び箸を動かした。食べながら、考えた。日本で慣れ親しんだ「ルーローハン」は、台湾の「ルーソーファン」と本当に同じものなのか? いや、そもそも「同じ」とは何だろうか。同じ形をしていても、味わう人間が違えば、違うものになるのかもしれない。そう考えると、ぼく自身もこの異国の地では、いつもの自分とは少し違うのかもしれない。
食べ終わったころ、店主がぼくに話しかけてきた。日本人か? という質問だけは分かったのでそうだと答えると、たぶん「おいしかったか?」とでも言ったのだろう。ぼくは笑って「シェイシェイ」とだけ返した。無愛想だった店主がカピカピに光る袖で鼻水を拭いて得意げに「そうだろう」と言った。
ちょっとした衛生観念の違いからつい目を逸らしてしまう。その先には目の前の赤い看板があった。
肉を火で操るのかと、拙い漢字の知識で店主の鍋さばきをみてオリジナルメニューなのかなと思う。
味の方向性は違うがきっと日本に来たらこれはルーローファンと呼ばれる気がした。だが、彼が『肉燥飯(ルーソーファン)』というからにはきっとルーソーファンなのだ。
店を出て、夕暮れの台南の街を歩く。日本とはまったく違う匂い、色、音。それでも、どこか懐かしさを感じるのはなぜだろう。
あの「ルーソーファン」の味はもう覚えていないが、あの店主の得意げな表情は覚えている。

「肉燥飯」と書いてあったもの

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