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【創作】減量! 汁そばの罠

 なんかさ、生意気だなって思ってた。
 ラーメンは汁に油があるからカロリーが多くて、その結果としてダイエッターたちが避ける。だから汁なし麺を作った。それは分かる。
 汁なし麺だと何となく物足りないから魚介出汁つけました。つけ麺の完成。うん、百歩譲っていける。
 それがなんだ、魚介出汁はさっぱりし過ぎてるから油つけました。あぶら麺。
『カロリー控えめ あぶら麺! 糖質五〇%OFF!』
 なんでだ。
 ぼくは声を上げずにはいられなかった。脂質は糖質やタンパク質の二・五倍のカロリーがあることは、中学校の家庭科の教科書にだって書いてあるのに、なぜまた油を戻してしまったのだ!
 ぼくは拳で膝を打ちつけた。紆余曲折して本来の目的を見失ったモンスターを、なぜ人類はまた生み出してしまったのだ。そしてボディビル大会まであと二日だというのに、なぜぼくはここに来てしまったのだと。
 それは愚かな選択を何度も繰り返す人類の歴史を、ぼく自身も体現してしまったことの恥ずかしさでもあり、あぶら麺への同族嫌悪でもあった。

 かがみこみ、腹の空腹と相談をした。あと四八時間後にはきっかりこの空腹からは解放されるのに、その我慢もできないのか。頭の中があぶら麺でいっぱいになってしまった。
 香ばしい匂い、ツルッとした麺、絡みつく油……いや、ダメだ。ぼくは妄想に飲み込まれそうに、いや妄想の汁を啜る妄想で悦に浸ろうとしている。
 あぶら麺屋の前で項垂れては入ろうとして、また拳を膝に打ちつけるぼくを、他の客たちが不審げに見た。
「い、いや違うんです。これは」
 ふと、あぶら麺屋のディスプレイに『汁蕎麦』の文字が見えた。
 正確には後ろの店の看板が反射している。
 ぼくはハッとした。
「これは! 汁蕎麦と迷っていたんです!」
 大声で叫んだ。汁蕎麦! 汁蕎麦ならいける! ぼくは振り返り減量でほとんど力の出ない体を無理に動かして走った。汁蕎麦。汁蕎麦。汁蕎麦ならいける。

 汁蕎麦という救世主で、視界が一気に開けた。蕎麦はカロリーが控えめだし、タンパク質だって多めだ。しかもつけ麺の発想でいけば低脂質だ。
 ここ数ヶ月冷たいサラダチキンばかり食べていた身体が白湯以外の食べ物を欲していた。汁蕎麦。汁蕎麦。
 もう汁蕎麦以外考えられなかった。

 店内に入店すると、
「汁蕎麦ください!」
 と叫んだ。半分後退りする店主も気にせず、ぼくはカウンターテーブルに席を取る。空腹がぼくを動かしていた。
「は、はい。お待ち……」
 店主が汁蕎麦を食券と交換に恐る恐る差し出す。まるで獰猛な獣に餌を差し出すように慎重に。
 ぼくは震える手で箸を持ち上げ、湯気の立つ蕎麦をつけ汁につけて、一挙にすすった。
「あっつ!」
 もう何ヶ月も経験していなかった高温の汁で舌が火傷をする。ああ、この歯応え、出汁の香り、油のコク……。
 油のコク?! 戸惑う心とは裏腹に食べ始めてしまった身体は麺を口に運ぶことをやめない。本能がぼくの手を勝手に動かす。
「はふっ、はふっ。うまい。うまいです」
 ぼくは涙を流しながら蕎麦をすする。汁に潜らせ、蕎麦を啜るとき、垂れる汁もすべて舐めとりたいくらいだった。だが、同時に一つの大失敗に気づく。
 こいつ、可愛い顔してるが中身は強烈に凶暴だ。
「いや、やばい。はふっ。はふっ」
 ぼくは蕎麦を啜る手を止めたいと思っているのに止められなかった。

「あの、もう少し落ち着いて食べたほうが……」
 店員が申し訳なさそうに、そして恐怖の色を浮かべながらぼくに忠告しようとした。
「すみません、食べたくないのに美味しくて、美味しくて」
 店員は怪訝な顔つきになったが、異常者を前に感情を露わにするのは別の問題を引き起こしそうだと言わんばかりに顔を伏せた。他の客もぼくの方を見て見ぬふりしている。
「分かるんです。これ。鴨汁ではあるけれど、背脂で出汁を取ってて、複雑にいろんな根菜の出汁も取っている。たぶん隠し味に日本酒も入っている。」
 うつむいた店員がちらとこちらを伺う。
「もしかして分かってくれるのか」
「でも会う日が良くなかった」
 ぼくの頬を一筋の涙が伝う。
「あと三日。あと三日だけ先なら良かったのに」
「あと三日でなにがあると言うんですか」
「あと三日後にはぼくは、解放されるんです。でもそれを待たずにこれを食べてしまった。ぼくは三日を待たなかった。それは大きな報いを受けることになるんです」
「報い? それはいけない。私はお客様に幸せになってほしくてこれを作りました。私の蕎麦で報いを受けることがあってはいけないです」
「いや、きっと報いを受けるね。」
「せめて今日だけは幸せであってください」

 そう言うと店員は替え玉を出した。
「これは……?」
「俺の蕎麦を涙を流しながら食べた客は君が初めてなんだ。俺は本当に嬉しいんだよ。これはサービスだ。受け取ってくれ」
 店員はウィンクした。ぼくは膨らんだ腹を見てコンテストは諦めることにし、彼の感謝の気持ちを受け取った。そして、グルメ評論家になることにした。
 その後、何杯替え玉をしたかは覚えていない。

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