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とどまる思想の社会デザイン論(あとがき)

11.あとがきとして

 前回までの投稿で「とどまる思想の社会デザイン論」としてその1〜3を投稿してきた。

 最後に書いたように、交換様式A(贈与)、B(再分配)、C(商品交換)のいずれからも距離を取ってとどまることが、より自由な都市・建築を生み出すだろうと考えているのだが、普段あまり意識せずに使っている「自由」という言葉をあらためて定義しようとすると案外難しい。今回は自由の定義を勉強しながら、本論その1〜3の内容を自省的に考察することであとがきに替えたい。

12.二つのモデル

 自由の意味については、例えば邪魔するものが何も無い状態だろうと想像できると思うが、世界に自分一人だけ存在しているような状態でない限り少なからず何かの影響を受けながら生活しているので、自由の定義としては十分ではないようだ。こうした問題に対して哲学者達は様々な立場から自由を解釈して論じているのだが、結局のところはいずれにも反例が存在し定式化したものは無い。このような曖昧な状態ではあるが、直感的に理解しやすい二つのモデルがあるという。
 一つ目のモデルは「他行為可能性モデル」と呼ばれているものだ。我々が行動するときに複数の選択肢が開かれており、何かの選択肢を選んで行動するときに同時に他の選択肢を選ぶこともできた状態であることを示している。二つ目のモデルは「源泉性モデル」で、これは我々が行動するときに、その行動を自らの意志に従って自発的に生み出している状態であることを示している。そして、この二つのモデルがほとんどの現代自由論を分類できる理解の仕方だと言われている★1。

13.とどまる思想の再認識

 以上のような自由に関する二つのモデルを道具にして本論の「とどまる思想」をもう一度見直すと、まず何かしらの事業は複数の交換様式に基づく手法の組み合わせで成立していることを認識する時点で、複数の選択肢に開かれたことになる。
 また、いずれの交換様式からも距離をとってとどまっておく事は、つながりを切断する手段を残しておくことでもあり、つまり自らの意志でコントロールできる範囲を広くとっておくことになる。このように考えると、「とどまる思想」は「他行為可能性モデル」と「源泉性モデル」をハイブリッドした自由の考え方になっていると再認識することができるだろう。
 ただしここまでは個人の行動に関する自由が論じられていることから、ある事業を一つの人格として類推した場合にそれが自由な状態かどうかの確認にはなるが、様々な人格が集まって協働するときにその関係性の中に自由が確保されているかという論証にはなっておらず、他の論考にも関心を広げておきたい。

14.社会圏と関係性

 ゲオルク・ジンメルは大都市と田舎(小さな町)の比較から、社会圏の大きさと自由の連関を論じている★2。ジンメルによれば、相対的に小さな社会圏では組織としての自己保存のために求心的な一体性が求められ、個人の自由は許されない。一方で、社会圏における数や空間などが拡大するにつれて集団としての統一が弱まることで、個人の自由が獲得されると言っている。さらに、貨幣によってあらゆる質や個別性が価格に還元されることが、大都市のような大きな社会圏の原因であると同時に結果であるとして、資本主義的な自由を肯定的に捉えているように解釈できる。20世紀に入ってすぐの本格的な近代化に向かって世界が動いている最中の論考であり、それまでの封建的な社会に対する否定的なバイアスは否めないが、社会圏の規模と自由が連関するという点を注目したい。
 貨幣の媒介による自由については、ピエール・ジョセフ・プルードンも同様に述べている★3。貨幣による合理的な交換によってスムーズに互いの不足する部分を埋め合わせる事ができれば、単独で獲得できる自由よりも更に増大した複合的な自由につながるという。しかしながら、ジンメルとは異なりプルードンは、資本主義的な社会が発展すると生産者と労働者の二つの敵対する階級に分離するため、あらたな奴隷解放が必要になるという事まで議論を展開して資本主義の限界を危惧していた。
 つまり、社会圏が拡大するにつれて共通の価値を計るための貨幣が進化し、それが多くの人々の間で流通する事によって複合的な自由が拡張された。しかしながら、貨幣による自由には階級格差などの弊害があるため、経済を拡大するだけではより自由になるとは言えないということだ。

15.ちょうどいい規模

 以上のようなジンメルとプルードンが自由に関して論じる内容を参考にして、多少の意訳を含めると【図1】のように解釈できる。

【図1】自由に関するパラメータ(筆者作成)

 【図1】の左右両極端に振れると、支配や格差による個人の源泉性が損なわれることや、封建性による隷属関係や資本主義による負債のように個人の行動が制約されて他行為可能性が損なわれる懸念がでてくることから、中間辺りにより自由の度合いが強い領域がある。ただし相対的な強さであり、常に緊張関係にある。これらが社会圏の大きさに連関するとしたら、小さすぎず大きすぎもしない中間のスケールに、共同体とその中の個人が共により自由なちょうどいい規模が存在するのではないだろうか。
 それは例えば100人なのか1000人なのか定量的なスケール感で捉えるのは困難だが、定性的には個人が自発的に他人と関係性を結ぶことができるのと同時に独立することもできる状態なのだと思う。

16.今後に向けて

 本論全体を通じて筆者がどのように物事を構造化して捉えているか、そして何を面白がっているかを記すことができた。さらに「とどまる思想」と名付けた考え方は常に力学を感じながらも曖昧なままにしておく、「宙ぶらりん」とも言い表せるようなスタンスを含意した普遍的な価値観だと考えている。また、都市・建築に関して考える際には何かしらの形で実体を伴うことから、やはりスケール感が重要であることを最後に触れておきたかった。
 抽象的な内容に終着したが、このあとがきを書きながらも具体的なインスピレーションに出会えたこともあり、これをキッカケにより実践的な展開に向けて検討を進めたいと思う。



★1 高崎将平,『そうしないことはありえたか?ー自由論入門』,青土社,2022
★2 ゲオルク・ジンメル,『大都市と精神生活』,1903
※松本康 訳 http://www.rikkyo.ne.jp/web/ymatsumoto/library/simmel.pdf
★3 P.J.プルードン,河野健二 編,『プルードン・セレクション』,平凡社,2009

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