「親心」という便利な言葉

唐突だけど、私はこの言葉が余り好きではない。と言うか嫌いまである。
理由は簡単で超身近にこの言葉を都合よく使う人がいるからである。

勿論、この単語が持つ精神性の普遍的な意味合いについては理解出来るし納得も出来る。自分が親になれば当然同じ様な心を持って子供に接するだろう。
ただ先に出た超身近な人は、心配=親心としながら、その実「心配や不安で一杯の自分の心理状態に我慢が出来ない、耐える事が出来ない」という意味合いがありありと見て取れる。
しかもその心配不安の類は、自分で勝手に背負い込んでいるのだから、始末に負えない。

とは言ったものの、人間生きていて最も大変と言うか困難なのは「焦りたがる性急な心を制御する」部分にあると思う。
特に私の様な生来のせっかち人間にとっては、困難なんてもんじゃない。
自身の最も根っこのさらに中心部にある基礎人格そのものを意識で抑制するのだから大変だ。
なので先出の人の気持ちも分からんでもないのだが…

とは言え大人である。殊に他者と関われば、自身の急ぎたい事情と相手の心理的な余裕を伴う事情が合致する事なんてそうは無いもの。
こっちは急いでいても相手はそうでも無く、またその逆のパターンも多くあるものだろう。
だから自身の事情だけ優先してその急ぎっぷりを相手にまで強要すれば、その人はたちまち煙たがられる人になってしまう。
かと言って相手の事情ばかり汲んで、こちらの意思を完全に抑えつけるのもそれはそれで自分が息苦しくなるだけだ。


難しいものである。人生とは本当に難しい。
結局のところは、成功も失敗も多くを重ねてそこから「自分はこういう風に生きれば良いかな?」という風にオリジナルの自分を練り上げるしかない。
それが良い具合にネリネリになる頃には、きっとユッタリとどっしりと構える良い感じの大人がそこに鎮座し、涼やかな目に温和な表情で周囲を眺めているだろう。


かもしれない。

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