組織のトップが不安定だと(毒親)
組織のトップの精神が不安定になると、その組織に属する全ての人もそれに影響され引っ張られる事になる。
ある者はただうろたえ、ある者は不甲斐なさに怒り憎しみ、ある者は成り上がりの機会と反意を露にする。
これらのどれもが「この組織に安定と安寧は無い」とハッキリと意識しだすが故だろう。
少々大げさに書いたが、これは家族と言う集団の最小単位でもその本質は何も変わらない。人類であろうと国家であろうと家族であろうと、だ。
昨今「毒親」という言葉が蔓延しているが、認識と意識するかは別としてこの概念性自体は家族と言う集まりを組織した頃からあったもので、そこにある本質は先に書いた事にこそあると思われる。
つまり組織の長、家族で言えば家長(大概は父親)の精神性が継続して非常に不安定状態に陥ると、そこに属する他の家族たちの精神も引きずられる事になる。
不安定さを現す精神性の形は人それぞれだろうが、共通してある意識は「この家庭に居て心から安心する事は無い」と強烈に実感している事。
実家に居る事、実家に帰省する事が苦痛に感じられる人は、少々思い返してみればこの事実が当てはまるのではないかと思う。
と、このような事実を知ってみたところで、相手は自分よりも存在として長く生きている”はず”の年長者である。変えようとして見たところで、まずそれは不可能な話だろう。
ならばどうするか?
…どうすれば良いのだろう…??
一つだけ確実に言える事は、まずは事実を認めて受け入れる事だろう。自身の家族は機能不全であると。
そして次にその事実がハッキリと見えたのであれば、責任の所在を自らに全て求めない事。
確かに相手が強大過ぎて変える事が叶わないのであれば自らをそうすれば良いと考えてしまうのは、特に内省内罰的な人であれば良く分かる事だ。
でもそれは、不必要に過剰に自らを責め攻撃する事にもなりかねない。そうなれば、人生の大部分が泥沼にはまる事さえ十分にあり得る話だ。
結局のところは、観察眼を磨き思考力を上げ豊かにするしか無いのかもしれない。
自省と自戒の念は成長には必要だが、何でもかんでも自らが背負い込んで成り立つ人生もそうは無いもの。
ならば、その境界線を見出す為にどうしてもそう言った慧眼を持つしかないだろう。これは一度身に付ければ、自身の内面以外を見るにも役に立つ能力となってくれるはずだ。
最も頼りたい相手が最も頼れない人生と言うのは、本当に悲劇そのものだと思う。殊に親であればなおさらだ。
誰だって人生で最も尊敬できる相手は親でありたい、あって欲しいと願うものだろう。意識の有る無しは関係無くそうであろうと思う。
でもそれが叶わず、親に対して負の想念を抱き向けるのは、それを行うその人もまたとても辛く苦しく、そしてやるせなく虚しい。
「強く、ただ強く、人生を強く、自らを強く在りたい」
そう強烈過ぎるほどに意識し自らに課す人ほど、その心のさらに奥深くにダイブすれば、大きく温かな柔らかい壁に背中から抱きしめてもらえる事を期待しながら膝を抱えて俯いている自我に辿り着けてしまうのかもしれない。