
【長編小説】異邦人 #8
告白
彼女の原付のうしろにまたがり街を走った。
——掴んでて。
ん?
腰!
風が身体の粗熱を冷まし、気持ちよかった。橋を渡ると川へと竹竿で糸を垂らしている老人が五、六人いる。私は彼女の腰から正面まで手をまわして寄りかかった。目を閉じて、背中の温度と振動を感じとる。風圧と轟音がそばで通り過ぎていった。大型トラックであろう。
ここの——、行ったことある? 彼女が声をあげた。
なんだって? 目を開けると、動物園を通り過ぎていた。
再度、大きな声で、
動物園!
ない! と返事をする。
よく父親と来ていたんだ。
楽しかったってこと? 顔を近づけ左の耳元で訊いた。
いや、その逆!
運転しながら急に振り向くものだから(それがあまりに近いものだから)、歯と歯がぶつかりそうになった。
最近値上がりしたけど、当時はただ同然の入場料で。休みの度に連れられてたんだ。でさ、ご存じの通り、この街は暑いでしょう。どの動物もまったく動かないんだ。それをほんと毎週。と言ってFuckと三回唱える。我々はハハハとお互い笑った。
一通り回遊したのち、路面のプラスチック椅子に二人で腰掛け、私はコーヒー、彼女はレモンティーを頼んだ。路面店は其処此処に点在し、向かいの店は砂糖に群がる蟻のように山をなすほど若者に人気がある。路上に座り込み潜める小さな若者たちはフジツボのように密集している。車が通るたび椅子と机が揺れ、排気ガスが顔に張り付いた。
あなたの名前ってどういう意味?
コーヒーをストローで吸いながら私は答えた。グラスのなかで、氷が揺れた。
ああ、緑色の雨を意味する。私の故郷には明確な四季があって五月の樹々が青くなるころの、雨の日に生まれたらしい。安易でしょ。
明確と言ってしまったが、一年中似たような気候のここにも季節はあると否定されることがある。雨季と乾季といった二種類ではなく、ある者は四種類、ある者は六種類の季節があるという。雨季と乾季の切れ目、気温が移ろう時期、匂いが変わるらしい。
余所者は、季節性を論じるとき枠組みを安易に持ち出してしまうが、住人に言わせれば我々が感じることのできない情念がそこにはあるという。ただ見る限りこの街は、一年中同じ景色だ。
あなたにはわたしの本名を教えてなかったよね。
彼女のことは英名で呼んでいた。
ああ、でもそうだね、発音が難しいから今まで通りでいいんだ。
そうじゃないの。わたしのほんとうの名前は、その、……英語でHolyを意味するの。このわたしの名前がだよ。わたしがほんとうはどんな仕事しているか、知っている? 汚い仕事よ。
what?
男のアレを蹴るのよ。
ナニを?
Ball. ほんとう、わたしの名前なんてShitが相応わしい。親がつけてくれた聖なる意味とは正反対のことをしているのを、親は知らないんだ。
ごめん、理解が追いつかないんだ。
BDSMって知らない?
聞いたことはある。最近ニュースで知った。ゲイのカップルのミストレス役がプレイの延長線上で口のなかに濡れたタオルを押し込み窒息死させてしまったのだ。
安心して。わたしはけっして好きでもない男に身体を触らせたりしないし、晒しもしない。それはあなただけ。わたしを信頼して。
そう言って彼女は動画を見せてきた。動画のなかで彼女は中年男性を緊縛し、蹴り飛ばしていた。一回二◯◯ドル。女王様。とコメントが書かれている。
でもね、わたしの主なお客は女の子なの。女の子のあそこに挿入することもあるんだ……
ごめん、少し混乱している。
私は自分の気持ちを表現する言葉を文字通り思いつかなかった。かろうじてもう一度混乱していると言い、それについて気にしないと付け加えた。
私は部屋に帰り、布団に潜るとすぐに彼女のアナザーアカウントを調べ、それはすぐに見つかってしまった。それはだって、そのアカウント名は、Holyであり、Shitを意味していた。彼女は二つの顔を持ち、両方のインフルエンサーだった。別アカウントにはさまざまな写真と動画が投稿されていた。
彼女の写真。タイトな黒い服と白いストッキングに白いガーターベルトをつけ、鞭を手にし、恍惚な笑みを浮かべながら、カメラのやや下方を見下している。桃色と黒色の髪色がアクセントとなり、幼さは排除され、うっとりするほど美麗だった。そのやけに固定化されたイメージ図は宣材写真であろう。
他には、胡座をかいている下半身の写真。スカートの中が見えないよう手を垂らし、その指に手巻き煙草を挟んでいる。恐らく大麻だろう。
徐々に心臓が鐘を打った。
下卑た男が彼女の足の隙間に顔を埋めている動画。
尻を手のひらで叩く動画。
彼女の右手裏にある百合のタトゥーが彼女であることを証明している。そのタトゥーの手だけが別の生き物のようにくねって、しなり、うねうねと、醜い獣に絡みつき、餅をつくように跳ね、紅葉を咲かしてゆく。
ボールを蹴る動画はなかったが、洗濯バサミを何本も挟み、膨れ上がった黒く腐敗したボールにまた百合の花が添えられていた。
たしかに彼女は顔を映していなかった。あくまで彼女のすがたの写真と破廉恥な写真は独立していた。
アナルに挿入する動画に映る相手の尻は心なしか角張り、はたしてそれが女性なのか判断がつかない。
ある動画では、唾をかけペニスを足で踏み、男は射精をしていた。彼女の足だとわかったのは、彼女が履いていた指だけ露出した特徴的な靴下が映っていたからだ。その足の踏み方に残るわずかなぎこちなさが、唯一私を慰めた。
あの百合のタトゥーが目に焼き、目の中でうねり記憶の奥底まで蛇のように這入りこんでいった。
彼女のアシンメトリーの髪色が、おそらく加工アプリを使っているのだろう、写真のなかで反転し、動画のなかでは正常に写る。想像のなかでその色の正位置がわからなくなった。ソファではいつも私の右側に座り、半面は桃色だったから左半面が桃色のはずだった。その実像がどうしてもわからなくなった。
彼女の告白はあまりにも唐突で私の思考を遮断し、木から林檎が落ちることを語っているかのように自然で、私を試す素振りもなかった。彼女はどこまでも無邪気だった。それは惹かれた一因でもあって、それを否定しまっては元も子もなかった。それでも私はきっといつか咎めてしまうだろう。その呪詛が私自身を苦しめることだとわかっていたとしても、住む世界がちがうという圧倒的孤独感から逃れる術はないのだ。
猜疑心が芽生えるまでもなく、画像のなかで彼女が気品さと気高さを失わず、毅然と存在しているという事実が私を脅かし、逆に寂寞とした惨めさを叩きつけていた。
性を売ることは、この街ではタブーだった。ただ、巨大な地下経済がすでに形成され、黙認されているに過ぎなかった。
この街の法律は一方的に得をする「一般人」を規制し、損をする者を守り、社会もその理論に迎合する。ただ、私には結局誰が得をしているのかがわからなかった。お互い一部分で損し他方の部分で得をするのではあれば、それはサービスの対価でありビジネスに過ぎないというのだろう。ただ、わからなかった。金を出して、何も満たされず、更に何かが失われていることだって、あるはずなのだ。サービスが不足しているという意味ではない。何かが失われていることを、金をだして確認せねば生きられない者がいるはずなのだ。私はこの街を否定してでも、その実存に目を背けるわけにはいかないのである。
*
私は彼女にメッセージを送った。
きみのアカウントを見つけてしまった。
ああ。見ちゃったのね。すぐに見つかったの?
ああ。すぐに。簡単だった。
どうだった? 感想は?
おどろいた。
でしょうね。
更新されていたね。
月に一度呼ばれるんだ。
忙しそうだ。
来年から時間空けられるようになるの。来年そうだ、あなたも見学に来ない?
自分が? それは、どういう状況なんだ?
そんな大袈裟なもんでもないのよ。
クレイジー。
ハハハ。
オーケー。来年ね。