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【中編小説】死願者 #6【完結】
第六話 最期の講義
女が早々に退院したとあって、それからは女の家に足しげく通うようになった。休日はかならずといっていいほど通った。管理人に、「あんたなら安心して任せられるわ」とお墨付きももらった。女の感情の起伏は前以上にはげしくなっているようだった。女の手首の傷跡は消えたりはしなかった。戒めの傷はその手首に刻まれ、女はときたまそれを呆けてながめたり、にやついたりしては、嬉々として男に見せびらかしてくるときもあった。男も代わりに親指の腹を見せてやった。しかしすぐに治癒し、痕も残っていないそれに女はほとんど興味をしめさなかった。それもそうだろう、男の傷など女のそれと比せばたいしたことはない。手首の傷があるおかげで女の気分の落ち込みは最低限保たれているような気さえした。それでも、一ヶ月経てど、女の気分はシーソーのようにあがったり、さがったり、ひどく不安定だった。いくら自傷をくりかえさないようになったとしても、そんな女を見ていると不安は伝染してしまう。自分の安心のためにも女には落ち着いてほしかった。その不安定な感情を抑えるために、男はシーソーの片側に乗ってやりたいと思うようになっていた。二人でいればたしかに浮き沈みはありえるが、どちらかがあがったときにはどちらかがさがるのだ。不安定な状態でも、二人で足して割ればそれは安定状態になるだろう。うまくいけば地面と平行した均等な状態を保てるかもしれない。それに、なにより二人のほうがたのしい。もう十一月も終わりのころだった。
しかし、一向に男は煮えきらなかったのである。そんな男の様子を知ってか知らずか、女がぽつりと口走った言葉が決定打となった。「それで、あなたはどうして私が死ぬくらいのことでおびえているの。無関係なのに」女はそれを訊くときを虎視眈々と待っていたようだ。幻想の奴隷になりはてていた男は、女が最初にした問いをとうに忘れていた。いいかげん、はっきりさせなければならないのかもしれない。そして、次の週になって男はようやく決心したのである。
女性とは迂遠な生活を続けていた男が、女を説得するために放った言葉は、
「犯罪とは、つねに何かを奪うことに対して定義される。人の所有を奪っていけないということが大前提なのである。窃盗ならば金、殺人ならば時間。双方とも奪ってはならないものである。ゆえに自殺が犯罪ではないことにも肯ける。自殺によって消失するのは、自己の所有する時間であって、そこには選択の自由がある。人は誰しも自分の持ち物をなおざりにしがちだ。自分の物をどうしようと勝手だと。しかし、自殺が不可とされる理由といえば、個人が他の所有物に成っている場合ではなかろうか? よし、一緒になろう」
男はまじめくさった表情で言い放った。最上であると確信して男が用意していた求婚文句に対し、女は一言、「なにそれ」とだけ言ってきた。なんの動揺も見せず、やはり女は薄情だと、男は思った。
「提案だと考えてくれてもいい。プロポーズには提案の意味もある」
「知ってるわよ、センセ」
「まだそういうことを考えられないということは分かってる。ただ、ぼくがきみのことをどういう風に思っているかを、まあ、ぼくの考えを知ってほしかっただけなんだ。べつに返事を急くつもりはないし、きみがもう付きまとうなって言うのなら……」
女は、とつとして唇をかさねてきた。男はあわてた。自分の中の動揺や身体の震えが唇を介して、すべて女へと伝導してしまうかと思って怖くなった。男には自分だけが女の魅力を気付いてやれているのだという驕りがあり、その驕りが男に優越感を抱かせていただけで、女への思いなど嘘偽りなのかもしれなかった。
しかし、もうどうだってよくなった。それほどまでに男は浮かれていたのである。それに、女の震えを感じとれたのだから。
気分のいいときはあいかわらずの最新邦楽の鼻唄はのりにのっていたし、よろこんでいるときは小柄な身体で大げさな身ぶり手ぶりをして表現するし、きゃっきゃ言いながらメロドラマに目をそそいでいることもある。用務員がガングリオンを切除したはなしには、おおいに笑っていた。だから女の唐突な変化は多少なりともおどろくべきものだった。女は髪をばっさり、肩ほどの長さまで切っていたのだ。胸騒ぎがする。ゲジゲジが心臓を這うような感覚。髪を切ったことをべつとして、最近女は落ち着いているし、そろそろ返事を聞いておいたほうがいいのかもしれなかった。
十二月一日。街路樹は末枯れ、恋人たちが浮足立つ季節になった。この日はなんの日だったか、と考えてみたが、一年三六五日、なんの日でもない日はないのであって、いかなる記念日であっても公に認められなければ、やはりなんの日でもないのである。ただ女の返事を聞きに行く、それだけの日にちがいない。何も気負うことなくワインでもたずさえて、身軽な足どりで口笛なんぞを吹きながら向かいたいものだ。
とびらを開けた女の面持ちはやけに神妙である。ぶかぶかのベージュのコートを着ていて、釦をとめずに、はだけた前面を片手でおさえ、もう片手でとびらを開けて男を招き入れた。コートから煙草の臭いがした。ブラウン管テレビには、地上波初放送、感涙必死と喧伝されていた恋愛映画が流れている。録画してきたやつだ、もう開始から一時間以上経っていたから今は見たくない。男は赤ワインを机の上に置いて腰をおろした。女も腰をおろし、コートを脱いで白いブラウス姿になって、ほどなくぼそりとつぶやいた。
「あなたの弟さん、交通事故で死んだんですよね」
「そうだけど」女の声は要所々々聞きとれなかったが、しばらくして欠けた部分を埋め合わせ、そう答えた。最近映画を見る暇がなくて録り溜まっているな、ふと男の頭にそんなことが浮かんだ。今夜の映画はちゃんと録画できているだろうか。容量が足りているか、あるいはちがうチャンネルを録画してきてしまった気がし、不安になる。
「私の主人、足が不自由だったのね」
相槌を待っているのだろうか、それともたんにつぶやいてみただけなのだろうか。あまりに唐突すぎて、史実を想い出と勘違いしているような口ぶりだった。こちらとしてはそのことで同情してやるつもりはない。
「理由知ってる」
今度は問いかけの意味が分からなかった。問いかえすと、またおなじ台詞をくりかえしてきた。男が知らないと答えると、女はその理由を語りはじめた。女の夫は交通事故に巻きこまれて足に障害をもったということらしい。車のまえに飛びだした者を避けようとしてハンドルを切った車が、歩道にいた女の夫につっこんだ。その事故での死者は最初に飛びだした者(その者はほかの車に轢かれてしまった)だけだったが、怪我人は三人いた。そのうちの一人が女の夫だった。そのことを当時の新聞を読みかえしたときに気付いたらしい。そのはなしを聞いているうち、男の顔は青ざめていった。そんなはなしを男も知っていたのだ。
うつむいて聞いていた男が顔をあげると、女は立ちあがっていた。手に包丁を持っていた。
男は身を退き、「よせ、どうしたんだ、一体。落ちつけよ。まずは、それをおろせ、な」
「弟さん、いつ死んだの」手に持ったものものしさとは反対に、女はだんごむしを唇でころがすようにしてしゃべった。
そして、はなしの最後に女は、そのある者と男の名字がおなじだと言いだしてきた。今度は史実とお伽噺をごった混ぜにでもしてしまったような口ぶりだ。
「いつなの」だんごむしを噛みくだいた……
「おぼえてないよ」
女は包丁をかまえ、「うそよ。きっとそうよ。あなた、それを知って気に病んでそれで私の面倒を見ようとしたのね」目を充血させ、まくしたててきた。
「そんなばかなお伽噺があるもんか!」
「じゃあ、あなたは私のこと、ほんとうはどう思っているの」
男はある言葉を思い浮かべた。しかしながら、その言葉は軽々しくはつかえない。後戻りができない気がした。自分の考えはあっても、自分のきもちがどうなのかは分からなくなった。女が憤ったのは史実の誤謬や隠匿に対してではなく、お伽噺の不誠実さにあったからにちがいなかった。そう考えると、事実はどうあれ、どうしようもなく遣る瀬なくなる。史実を正し、隠匿を暴露したとしても、不誠実さをどうにかできなかったのなら、一体誰が納得できようか。
「きみのきもちが分からない」男は目下の問題に目をそむけた。
「かんたんなことよ、もう誰かの所有物でいたくないのよ」
女が手をおろしたのを見て、男は安堵した。顔を見あげた。能面のような白い顔があった。もう一度視線をおとした。そこに手はなく、男はすぐに顔をあげた。けものの眼光のように泣き黒子と唇の紅が揺れた。とっさに護身術をつかった。
うめきが聴こえた。女の腹部に包丁が刺さっている。それを中心に血の泉となって、白いブラウスは毛細血管の写し絵になった。男の手は深紅に塗られている。生々しい実感がよみがえってくる。……正当防衛……過剰防衛……自殺幇助……殺人容疑……中学校教師逮捕!……いずれにせよ、センセーショナルにあおりたてられるだろう……そんなふうな先生には見えなかったな……いや、ああいう奴こそ、裏ではな。……手についた血を服で拭いてワインをラッパ呑みした。痛烈な眩暈とともに騒ぎ声が聴こえてきた。外でファンファーレが鳴っている。男はベランダに出ると、麦酒ケースを踏み台にして手すりから上半身をのりだす。マンションの下の路上にところ狭いまでに輝かしい橙色の行列が通っていた。活気づいたシュプレヒコールは鳴りやまない。男を鼓舞するよう和太鼓が響く。男がさらに身をのりだして膝をあげかけたところ、すぐ近くに声を聴いた。にぎわってるねえ。よこを向くと、いつかの乞食がいた。となりの部屋のベランダで、シャッポを目深にかぶった乞食が煙管をくわえていた。「わりいけど、あんたにはまだ早えよ」
「どういうことだ」
「あんたずいぶん前かららしいねえ」乞食はなにやら遠くを見ながら言ってきた。「でもずっと理由がなかった」
「ちょっと待てよ、みんなはどうなんだ。みんなだって、まわりにながされて生きていただけじゃないのか。納得できる理由がひとつでもあったのか。おれは三十二年間、精一杯生きてきた、なんでおれだけゆるされないんだ」
「慢性的無気力感、慢性的倦怠感、慢性的肥大孤独感、突発性絶望感、尊厳の維持、自己主張、英雄願望、転生妄想、不幸幻想……具体的な理由、経済苦、不健康、対人関係の齟齬、軋轢、怨恨。多様化した念慮のせいで認めたくなくてもなにかしらに引っかかっちまうのに……」
「……なんのはなしだ。理由ならいくらだって……」
乞食は男の衣服についた血を、鑑定士のようにしげしげとながめる。「そういう始終か」
「ワインをね……こぼしちゃったんだ」
たすけて。声が聴こえた。男が部屋のほうをふりむくと、女はうめき声をもらし、わずかだが指をうごかした。とっさに乞食に目をもどす。
「心配しなさんな、あんたがその部屋にいたことは誰にも言わんよ」
胸が熱暴走し、失禁をひきおこしたかのように、男の目から涙がこぼれ落ちていった。音が消え、行軍は中止され、パレード参加者が一斉に男を見あげてくる。身体を引いて、踏み台にかけた足をおろした。
今や、生と死、どちらの十字架も、天秤に掛ける気力さえ失ってしまっていた。薄く伸ばされ熱せられた意識の中、どうにもこうにも身体をうごかすことができなかった。気力が、意識が、薄れ、何かを行うための決断力が削がれていたのである。そうだ、天秤はどちらにも傾かない。男はうなだれ、窓枠にへたった。一呼吸置いてから、室内に……
まだ息があるかもしれない。
脈をさわった。性懲りもなく躍動している。
机の上に置いてあるショートホープの最期の一本を拝借して火をつけた。
すがすがしい覚醒時のように、無性に頭が透徹し判断力がまいもどったことで、男はまったくべつのことを考えていた。自殺義務感。自殺は権利だと思っていたが、義務と考えればすべて辻褄があう。権利は振りかざすものではない、そのままの意味で相違ない。救助が義務なら自殺が義務だってなんらおかしくない。義務的な自殺。処刑人のように義務的に自らの首元に鎌をふりかぶる。罪に無自覚で、受けるべき罰もないまま、その解釈を生者に委ね、息絶える。精神の処刑人が、己自身の肉体を裁く。場違いながらそんな言葉を思い付いていた。誰でもいいから人を呼んで、その意味を説いてやりたくなっていた。それとも恋のはなしでもしたほうが盛りあがるだろうか。もし男に明日があるのなら、その明日の朝のホームルームの時間に話せる体験談としてそんな話題を用意できたことに、自分自身の哲学を手に入れたことに、男はすっかり足りてしまった。崖っぷちに立ちすくむ、リストバンドの女子生徒、青痣の男子生徒と懐妊を暴露した女子生徒にまっさきに話してやりたかった。もしあの話がほんとうだったなら残された時間はあとわずかだろう、生まれるまえならば合法的に殺せもする。
煙を吐きだし、灰皿に灰をおとした。接吻の場面。映画はラストシーンにさしかかっている。おもむろにリモコンをとり、チャンネルを変更する。適当なニュース番組にかえると、濁声の評論家がなにやら厳粛に語っていた。
――人の生き死には均衡を保つといわれる。戦時中は戦死者が、代わりに出産数も増え、――彼等は将来兵士になるべくして、欠けた兵士の補充のために、戦死を宿命づけられて生まれ――平和時には自殺者が増える。そう、病気で中々死ねなくなった我々は、今や自由意思によって自決する。昨今自殺者数はうなぎのぼりだ。少子化の謳われる当世、増えすぎた自殺者の均衡を保つため、もしかしたら自殺向きの新生児が大量に生まれるのかもしれない。
女のうめきは弱々しくなった。煙草を口にくわえたまま、愛でるように頬を撫でる。荒々しく撫でる。繊細に。棘を払うように。地面を均すように。舐めるように。乱暴に。たよりなさげに。何度も何度も。あきれるくらいに両手いっぱいの愛をもって。懇切に。
煙草はあとひと吸い分くらいだ。九秒待とう。九秒経って、女がまた助けを乞うたら受話器をとりあげよう。待ちすぎたら人がやってくる。
それにしても、煙草なんて吸うべきではなかった。