【長編小説】異邦人 #9
スナックの風船顔の女の装いは派手になっていた。
桃色のチークが満月に添えられ、まるでおたふくだ。装飾品も金色を中心として固められ、どこかのブランドの財布を持っていた。縫い目の僅かな綻びから察するにウルトラコピー品だろう。だが、そもそもこの街のあらゆる物がはなから綻びている。はて、僅かな綻びが本物と偽物を分かつなら、本物に綻びができたときそれは偽物と評されるのだろうか。むしろ、あの顔面の綻びという、笑顔の表情……あれこそが機械と人を分かつ、本物の証左になりうるという矛盾……綻びのない保存性に、本物性は孕まないのだ……
女はさも男を熟知したような口ぶりで馴れ馴れしく私に助言をしてくるようになっていた。女はしきりに男の甲斐性について苦言を呈してくる。私は黙れと手で空を払って、極細のチーズを咥えながら誰にも読まれていない雑誌をパラパラとめくった。
さっきニシさんがいたよと、ママが言った。
くだくだと講釈を垂れるコラム記事のページを破り細長くちぎり灰皿の上で火をつけた。
そうですか。と返事をした。
彼、お金がないの?
記事は灰になってしまった。
私は言葉を紡いで記事を書いている。世界中のみんなが私に書かせるため、道化を演じ、事件を犯し、ネタを提供してくる。それを私は記事にする。私は実際の体験以上の価値を生み出すことはできない。擬似体験という名のアーカイブス化である。消防士が自ら火をつけるように、生活安全課が自ら性犯罪をするように、振る舞うことはできないので、私はその記事にペイント弾を投げるのだ。
またツケにでもしたんですか?
ママはゆっくりうなずいた。もうずっと。あなたからも何か言ってくれない? と言って肩をすくめた。
路地裏の隅っこのゴミ溜めみたいな場所に片膝を立てて座り込んでいる男がいた。ニシさんだった。
よお。と顔を上げた。この街にはルンペンは多いが、あまりにもステレオタイプなごろつきは珍しい。さしずめ酔い潰れてゴミ溜めに突っ込んだのだろう、全身が汚れ生臭さを放って、ゴキブリやネズミがとつぜんの珍客に騒ぎ立てていた。
何してるんですか。
おまえもおれを馬鹿にすんのか?
ぬうっと立ち上がって訳のわからないことを言い出した。
何言ってるんですか。ママさん困ってましたよ。女も酒もほどほど楽しめばいいですが、ツケは払わないと。ここに居場所なくなっちゃいますよ。噂の早い街なんだから。
ケッ。と痰を吐く。
そういった振る舞いで自分たちも居づらくなるんですよ。ただでさえ、詐欺で捕まったりしてるやつがいるんだし。
実際、詐欺で捕まった彼の写真はSNSで拡散された。要塞内の電柱あちこちに彼の自画像が指名手配犯のように貼られている。
どっちにしろここは吹き溜まりだろ。と彼は言い捨てた。おまえはなんで、この街にいるんだ?
……居心地が良い。気候が良い。住人が優しい。教育が整っている。仕事に溢れている。食べ物がおいしい。たとえそれらの一部あるいは全部が満たされたとしても、故郷を希う奴らもいる。故にそれらは必要条件にはなりはしない。
何を持っているんだ?
THE CITYです。
おまえも、おれと同じ穴の狢なんだよ。
そういうニシさんに対して、べつにどこにいたって同じじゃないですか。と言い捨て、THE CITYを傍らのゴミ溜めに投げ捨てた。
*
いつものように二時間ほど映画を観たあと私はもう少し一緒にいたいと言ったがそれは叶わなかった。玄関口で金を渡し、彼女は去っていった。三日後の同じ時間にまた来ると残したが、彼女は風邪を引き五日後にやってきた。五日後の同じ時間、ロビーまで迎えに行き部屋に招き入れた。ソファでだらけながら、彼女の一挙手一投足、忙しなくスマホを手に取ったと思ったらとつぜん静止しテレビを凝と見つめ始めたりするそのすがたをながめていると、私のなかに邪な感情が芽吹くのに気づいた。何度も何度も育てようとしていたそれが、彼女を通して実を結んでいく。
きみはシンデレラだね。と口に出ていた。
彼女はすぐに声の発信源に首を回し、
ならあなたは、ローレンスね。と答えた。
ちがうよ、ただのスレイブさ。なあ、マイミストレス、きみのガラスの靴はどこだ?
わたしはヒールがお似合いってことね。はいはい。彼女は私の頭を撫でた。でもあなたはスレイブじゃない。私の恋人なのよ。
きみはなんで自分と会っているんだ?
今このやり取りが私の人生体験の一部なのか、たんなる取材であるのかよくわからなくなる。そもそも取材が人生体験の積極的一面なのか、知識の集約なのかよくわからない。
私は今までプライベートにおいても向上性の見られない知識集約と経験を人生体験と切り離して、取材だと納得させてきた。仕事であればなおさら割り切らなければならないが、そう考えられず辞めていった連中も少なからずいた。逆に割り切らず残ったやつらもいる。下卑たゴシップを追う犬畜生のやつらだ。あいつらはプライベートでも嗅覚を研ぎ澄まし矢鱈アンテナを張り巡らし、グレーな手段で入手したネタをおのれの人生の一部かのように飲み会で話し聞かせてきた。私はその沼に踏み込もうとしてしまう片足を、今彼女に預けてしまっている。
私を汚してくれと頼んだ。
それはできないと彼女は言った。
ずっと正しくあるべきだと思っていた。でも、正しくない選択だってあってもいいはずじゃないか。正しくない連中を嘲笑うことでしか保てない立場なら、そんな連中を嘲笑うくらい正しくなくなればいいじゃないか。
私を汚してくれと言った。
それはできないと彼女は言った。あなたはスレイブではないのよ。そう呟いて、私のあたまを引き寄せた。
そうして彼女はその唇で私の口に栓をし、私の身体を黒くする。甘く熱い感覚が渦を巻いて口のなかに這入り込んでいくのだ……あと一時間であるが、その点は問題ない……肩から胸にかけて冷んやりとした感触と粘つきが渇くまもなく、黒く塗りたくられていった。力を入れ筋張った背中が徐々に彼女の吐息や接触の微圧によって融解され床に傾れていく。仰向けになった私は白い、白くて棘だらけのカメレオンなのだ、彼女の色に私は変色していく……頸に顔を埋めると顔料と香ばしい皮脂と饐えた汗の臭いが混じって、そばの桃色の薮から覗かせるふだん見せない美しく歪んだ表情に眩暈がする。被さる、わずかに露出された肌から感じとる小さな生物の身体を、床に垂らした片手で支え、もう片手で背中から順に這いずらせ忍びこませ、熱で赤く染め上げ、点が線となって面となる。なぞり、押しては弾み押し返され、摩る。吸啜反射のように舐めて咥えて包みこんで感触をたしかめ、やがてその立体像を結んでいく。彼女との交わりは人生体験の枠組みの一部として象られ、私はこの瞬間だけ私のなかから彼女を見つめている。小動物は小さく啼き、熱は濁流となって溶けてゆく……I'm coming……彼女は消えうりそうな声で囁いた……coming……わたしは来ている。来るだろう。来るよ……乱れた桃を潰すようにくしゃくしゃにする、爪が背中にめりこんでゆき……come……私もそこまで行ってやる……
彼女がシャワーを浴びて出てきたときには、すでに十二時五分前になっていた。彼女はベッドの隅にちょこんと座り、甘い声で諭すように話した。
あなたとの関係は仕事じゃないの。わたしはあなたにたしかに甘えている。あなたにはわたしのこと尊重してほしいの。わたしが風邪なら、休んでてって言ってほしいし、そう言うべきだと思っている。それはあなたの優先順位が低いってことではないでしょう?
ああ、たしかに。もし我々の関係が仕事なら、きみは遅刻をするわけにもいかないし、場合によっては風邪でも行かなきゃならないね……
*
いつの記憶だっけか。テレビを点けながら寝てしまい暑苦しい深夜にふと聴こえてきた曲、明かりが眩しくて寝ぼけていて依然夢のなかを彷徨っていて、左右も頭と足もどっちが上下かもわからず、クラゲのように海を浮遊しているような心地で、その幻惑的な曲をぼんやり聴き続けていた。外が明るくなって、となりで寝ていた今は亡き女が、起きしな蟹雑炊が食べたいと言うから、冷蔵庫にあったカニカマで似非蟹雑炊を作ってやった。急に現実に引き戻すような要求なのに、まるで夢の延長線上にある空想の食べ物のような気がした。あいつは似非だろうが気にせず美味しいと言って口もとに米粒をつけながらむしゃむしゃ食べて、風通りのいい窓際で二人一緒に昼まで寝た。故郷の記憶だった。
あそこを離れて少し歳をとった。枕にかぶりつき、身体を冷やしたいがために忙しなく寝心地の良さを探している。ラジオからあのときの曲が流れていた。窓は開いていないはずだが、カーテンがひらひらと動いている。ひらひらひらと、揺れる折り目が気になって仕方ない。仕方ないが、確かめる気力がない。眠りたいけど眠れない。天の消灯時間はとうに過ぎている。身体が火照って、布団が生ぬるい。曲が終わり、折り目の揺れも収まってしまい、しだいに意識がはっきりとしていく。カーテンの外には、一五○メートルの絶壁がある。川沿いのヴィラが星のように光っている。ふらふらと冷蔵庫を開け、コークで乾き切った喉を潤した。最後にラジオから流れた曲名も何も思い出せなくなっていて、その取り返しの付かなさに人生の一部分を損なってしまったかのような喪失感がした。
スマホが光り、彼女から写真が送られてきた。部屋の写真だった。すぐにメッセージで、
引っ越すことにしたの! 友達とルームシェアすることにして。今度あなたも遊びにきてね(ムーンマーク)
引越し先は原付で十分ほど中心街や私の家に近い場所であった。