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【中編小説】死願者 #5


第五話 未遂


 学校というものは、利便性だけではなく、「無駄」を意識されて設計されているらしい。その「無駄」こそ、生徒の逃げ場にもなり、いわゆる設計者の、学校の、やさしさでもある。無駄とまではいえないが、たとえば保健室もその一種である。時間が停止してしまったような異様な空間。時間も音も臭いも、学校のそれとは隔絶されたあの保健室。無駄な保険医の微笑み(頬笑みというものも、意思伝達においては社会的で合目的的ではあるが、人間以外が行わないことからも動物学的には無駄であるともいえる。無駄こそ人間性のあかしなのではないか)。あれらには現実を麻痺させる誘惑がある。保健室は不登校者が社会と己をつなぎとめる最終的な逃げ場なのだ。もし逃げ場がなければ、人はたちまち人生からも逃げ出してしまうにちがいない。つまり弱者、敗者、自殺志願者を救うにはいつだって、人々のやさしさが不可欠なのだろう。学校生活を回帰するとき、こと頭に思い浮かぶのは、あの、学校の中の生温かい病室、だだっ広い便所、喧騒が切りとられたような階段下であるのも、意識するしないにかかわらず、いかに無駄が人生の拠り所となっているかの証拠である。

 しかしこの学校の逃げ場の一つ、体育館裏の行き止まりは、以前喫煙者の巣窟、非行の温床にもなっていたことで、大々的に閉鎖されていたのだった。この学校は高低差があり、校舎の一階と体育館の二階が連結していることもあって、その体育館裏の行き止まりは外から階段で体育館一階に向かうための溝のような隙間だった。だが体育館一階(校舎側から見れば地下一階)の外に通じる扉は閉鎖されていたこともあり、今となっては目的不明の空間だった。そこはもはや完全に無駄な空間である。意識的に設計されたわけではない、愛のない「無駄」は、悪事をはたらくものにつけこまれる危険性があるのだ。以前、生徒間での姦通の報告もあり、生徒たちのあいだでは、姦通の際はそのしるしとして入口の階段に赤い靴下を置いておくという不文律があるほどだった。もっとも、その靴下をとっぱらってしまったり、その靴下があるからこそ覗き見するという事態が多発したことはいうまでもない。

 もう一つの逃げ場が屋上だった。だがこの逃げ場も以前に集団とびおり事件がおきてから封鎖されたままだった。ただ、屋上につづくとびらに鍵がかけられただけであったので、四階から屋上に向かう行き止まりの階段が、かろうじて一部の生徒の居場所となった。四階が実習室のならぶ階層で、人通りがすくないことを考慮しても、その屋上のとびらのまえは見通しがよかったこともあり、悪事の根城になることはなかった。病弱な生徒の小休止、ちょっとひとりにさせてちょうだい、そんな運用がなされる場所だった。あるいは、屋上からのとびおりを夢見たものの、施錠に憚れ、うなだれる迷える子羊たちの……

「あら、せんせい」彼女の場合、ちょっとひとりにさせてちょうだいの雰囲気の病弱で可憐な少女、最上段に腰掛けていた。「なんだか疲れちゃった」

「こっちの台詞」

「保健室って物騒なところよね、あそこには行く気になれない」リストバンドをつけている手首が蒸れているのか、彼女はしきりに掻いていた。「あのときの犬、ちゃんと保健所につれてったよ」

「そう」

「うん」

「ぼくにとっては、今のきみが捨て犬のようだけど」

 女子生徒は何度も手首を掻き、風にさらすようリストバンドをずらしたときに、あのあかしが手首にうかがえたことで、男は一瞬にしてけどり、颯爽と声を発していた……その傷……な、なんでもないわ!……なんでもないわけないだろう!……ねえ、内緒にして、おねがい……内緒にしたら事態は好転するのかい……好転はしないかもしれないけど、暗転もしないわ。誓って、しないわ……今が安定状態とでも……そうよ……ばか言え!……彼女は胸にかかるほどの黒髪を耳にかけると、男の片手をつかみ、そろそろと自身の胸にもっていった……内緒、約束よ、ね……男の掌と彼女の胸はシャツをはさんで密着し、彼女が下着をつけていなかったことはすぐに分かった。シャツは邪魔だったけれど、体温を共有するための儀式、あるいは体温測定の機械を利用しているかのようだった。それほどまでに形式張ったものに感じられて、張りついた指は一ミリもうごかせない。

 彼女は瞬きもせずに見つめてきた。……瞬きをしないということがどういうことか知っている……男は信じられなかった。どうしても、彼女の言葉が本心である思えなかった。だから、こう訊いてしまったのである。ばかな質問だと自覚しながらも。

「ほんとうに、内緒にしておいたほうが、いいのかい」

 彼女は何度も何度も瞬きをした――瞬きの効用は混入した異物を排出することだ――彼女はたしかに何かを排出しようとしている。しかし、彼女の瞳に何かが混入したわけでもなく、いくら瞬きをしても、排出にともなうはずの落涙はまだ期待できそうにない。いつまでさわっているの。男は無視する。

「……ほんとうに、内緒にしておいたほうが、いいのかい」

「……それは、いったい、どういうこと」

 ……あと四秒待ってみようか? それが共犯者に可能な最大の譲歩だ。



 ――教師たるやいつ何時も生徒の気持ちを察し、冷静に物事を対処せねばなりません。往々にして生徒は危険信号を発しています。それに気付くのが教師の仕事でもあります。生徒たちのわずかな変化も見逃してはいけません。どんなに些細なことでも、それらは子供たちの悲痛の叫びであるからです。子供たちは信号を読み取ってもらいたいという欲望と、それをひた隠しにしたいという感情で板挟みになっているからです。それに気付くのは容易ではありません。ただでさえ多感で複雑でアンビバレンスな年頃なのです。どこかに必ず歪みは生まれます。それがわずかな変化として必ず現れてくるものです。その違和を絶対に見逃してはなりません。

 男は職員室のゴミ箱の中にそのマニュアル本をねじりこんだ。

 あの夏祭りのときの仔犬だって、よく見れば恍惚とした表情を浮かべていたともいえなくはない。待ち人がやって来ないことほど幸せなことはないのだ。人を待ちながら、去る人去る人に期待を寄せるときのたのしさと、過ぎ去る者の惻隠の瞳は、何ものにもかえがたい。古くから待ち人の美学も謳われていることだし……



 煙草が切れていたので代わりに燐寸を吸ったら、燐寸から煙が出てきて、煙を吐き出すのと同時に自分の身体に火がついてしまう夢を見た。全身が発火し、唯一発火していない陰茎を誰かがせっせと吸っていた。その誰かは餅つきの動作で口を前後にうごかし、手水の過程で唾液を陰茎にからませていた。息の合った、その誰かの口と手の一人二役は、絶え間なく男を翻弄し、休む暇をあたえない。目覚めたとき、何十年ぶりのことだったか、餅のように粘り気のある白濁の液体が下着にこびりついていて、腐った粉ミルクのような懐かしい臭いが室内に充満していた。もう煙草を吸うのは、やめにしようと思った。最近、胃がいたむ。吐くものもないのに嘔吐の真似をする。咳をくりかえしていると、すこしだけ落ち着くのだ。

 夜の九時ごろ、胃薬を買いに近所の薬局に行った。胃薬を見付けレジに向かおうとしたところ、足がとまった。青痣の男子生徒を発見したのである。またも顔には青痣があり、手には絆創膏の箱を持っていた。

「こんな遅くに何やってんだ」

「うわ」男子生徒は芝居がかったように驚いてみせ、「偶然だね」

「家、このへんなんだっけ」

「そうだよ、去年越したんだけどさ。まえ電車でとなりに座っただろう。あれ、先生が乗るところからいっしょだったんだ。で、となりに座ってみたってこと。ときたま見かけるけど、いつも気付かないんだもん」

 絆創膏と青痣へと交互にそそがれる男の視線に気が付くと、男子生徒ははにかんだ。笑った顔は、まるめこまれたボール紙みたいだ。青痣がぎゅっと縮み、何かの抽象画のようにも見えた。

「おれ、透明絆創膏なんて売ってるなんて知らなかった。液体絆創膏だとひりつくから、やっぱりこっちかな」おどけて、絆創膏の箱を顔のよこで振ってみせる。かたかた、とぼけたような音が鳴る。「絆創膏っていえばさ、何日もつけてた絆創膏剥がすとさ、その下の皮膚、膿んでたりしてさ、生理中の陰唇みたいな臭いするよな、ぐちゅぐちゅだし。まあ、水につよい絆創膏っていってもさ、風呂入って皮膚がふやけちゃうとどっちにしろ膿んじゃうんだよな、本末転倒だよなあ。まあ、あの臭い、好んで嗅いじゃうんだけど。ほかにもガソリンの臭いとかも……」

「その顔の……」

「……俺、殺してやりたい奴がいるんだけど」

「なんだ、いきなり」

「先生はやさしいからさ、ゆるしてくれるよなあ」

「いけない。加害者の哲学なんて振りかざしてくれるなよな」

「だったら先生が殺してくれる」

「……誰をさ」

 ――轟音。大型トラックが薬局の外を通りすぎ、男子生徒の声がかき消された。

「……誰をさ!」

 男子生徒ははにかんだ。さらにつよくボール紙をまるめこんだ。水に浸して、両手でぎゅっと押しこめた。何かの騙し絵みたいに、青痣が見えなくなったみたいに感じた。そして男子生徒の顔は、板のようなまっ平らの表情へともどり、
「これ以上の言及は野暮だぜ」

「……分かってるよ」分かっているつもりだった。

「さすが。やっぱり先生は好きだな」

 あいにく、黙殺は教師のお得意なのである。手のつけようがない、やさしさの通じない非行に対しては、どの教師も、あきらめと称して知らんぷりをきめこんでいる。無責任な介入はやさしさの濫用だと揶揄される。分かっているつもりだった。時として、やさしさは、人を追い詰めるのだ。「無駄」こそが、世界のやさしさへの期待がふくらみすぎてしまったゆえの絶望が入りこむ余地であり、自殺の芽を植え付けられる唯一の拠り所なのだ。

 それなのに、次にふたりきりで対面したときには、きっと真相を訊いてしまうのだろう。



 胃薬をお茶で呑みこむ。ひとりきりでいたくなかった。薬局をあとにした男は、たまらず女に電話をかけていた。何度かけても女は電話に出ず、不安になった男はその足で会いにいくことにした。最近女とは疎遠だったけれど、もう自分のきもちを否定するつもりは毛頭なかった。

 女の部屋を見上げると、部屋の明かりがついており、まだ寝ていないらしかった。どうしてか安堵し、要はすませたとばかりに帰宅しようとした、そのとき、電話が鳴った。女からだった。もっとはやくにかけてきてくれればよかったのに。

 しかし電話に出た男の表情はみるみるうちに曇っていったのだった。

 電話の内容は、あの女が病院に担ぎこまれたという連絡だったのだ。……自殺未遂……また死ぬのをしくじった……破かれたあの世逝きの切符……あの女は手首を切って死にそこなったのだ!

「心配でねえ、ときたま様子見に行ってたんだよ。あの人、いっつも物憂げな表情してるだろう。今日は九時すぎにちょっと廊下を通りかかってみて、そしたら小窓が開いていてね、中をのぞいたら、引き戸の隙間から彼女が横たわってるのが見えてね。もちろん、ただ寝てるだけなんだろうと思って、だけど明かりがついてるのが妙でね、何度も呼びかけて、それでもしや、って。それですぐに鍵もってきて……とりあえず救急車と電話履歴にあった、あんたの電話番号にも連絡しておいたさ。あんた、ときたま彼女の部屋に来てくれてる人でしょ。かけつけるのがはやいと思ったら、あんたも心配で来てくれてたんだね」マンションの管理人は得意気にそう語った。
 ほんのついさっき運ばれたらしく、玄関は開けっぱなしだった。女の部屋の中には、病院での家族写真、吸い殻の五本入った灰皿……赤色の剃刀とくすりは見当たらなかった。ただし血痕があった。カーペットに血の染みがあった。たんに赤インクをこぼしてしまったみたいに、もともとそういう柄だったんじゃないか、というくらいに違和感をおぼえなかった。どうやら現場はそこではないらしい。

「こりゃ、出血多量だね。どうにも浴槽で、らしいね。でも何を思ったのか、たぶん服を着直してこっちまで這ってきたみたいだよ」

「これ見よがしに?」

「これ見よがしに」

 浴槽をのぞくと、たしかに血が飛び散っていた。心臓がぴょんと跳ね、動悸が加速するのが分かった。何が気になるんだい、さっさと病院行ってやりなよ、という管理人の声も男の耳には入ってこなかった。おぼえている……おれは血の海に何度も浮かんだことがある。身を沈めたことはなくとも、何度もその幻想の海に浮かんだことがある。あの中を泳ぐには、おれの身体はかるすぎた。浴槽の中でシャワーを出しっぱなしにして、手首を切る。血は渦となって排水溝へと吸い込まれていく。血の触手は海月みたいに枝分かれしている。水中を揺れる紅い触手はおれの身体にからみつく。いずれは、花火みたいに弾け、煙のように濁る、死願者たちの叫び。死にたきゃ死ぬがいいさ。とめる方法なんてありはしない。どうせみんなまわりから消えていく……

 いつか長年の親友はこんなこと言ってたっけ。

 ――愛とは、左手で首を絞めあげながら、右手で頭を撫でてやるようなものだ。

 たしかその日、親友は浴槽で手首を切った。すこしだけうらやましかった。自分にはとうてい叶えられないことを彼はいともかんたんにやってのけたのだ。


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