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【中編小説】死願者 #2

第二話 罪悪

 あの言葉が耳の奥で反芻される。

 ふいうちだった。
 誰かを助けるのに理由が必要だとは思ってもいなかった。あの女は死の望みを絶ちきれていなかった。命の恩人に対してあんな言葉を吐くくらいだ。本来であれば、救われた者は精一杯たくましく生きていくことを約束せねばならないのだ。その意思表明として笑顔の一つくらい見せるべきである。あの女が笑顔を見せるなら、あの唇の口角を、泣き黒子のある上方へと向けさせた、その表情を見ることができるのなら、救った甲斐もある気がしてくる。恩人が求めるのは弱音でなく、服従を約束する溌剌とした返事である。

 実際、市に表彰もされたし、新聞にも男の記事が載った。のこのこ女に会いにいってしまった男のこと、内実感謝でもされたかったのかもしれない。いや、生きていればきっと命が助かったことのありがたみに気付けて、そのいつの日かの感謝、を待っていたのかもしれない。あわよくば恩人の権利を振りかざして、色恋を期待していなかったとも言いきれまい。善人にはあらゆる特権が付与されるのだ。反対に、相手にはお礼という倫理的責任を負うものである。善人の資格を獲得しえれば、その資格を剥奪されないよう気を付けるだけで、――代わりに剥奪の恐怖つきだが――どうどう権利を主張して、質のわるい要求だってゆるされる。男にだって、内密な仲にもちこんでやろうといった下心がないとは言い張れなかった。

 しかし、あの女はまだ死ぬことを夢見ていた。本復を約束されたあの女が諦めわるく死に場所を探していたのも、健康などよりも深刻な懸念、つまり希望が約束されていなかったからだろう。不毛な健康、罪を背負って生きつづける覚悟……誰もが死刑宣告や余命の告知をされることにおびえながら生きている中、あの女は自分自身で自分自身に余命告知しやがったのだ。男がほんとうに余命わずかでもあったのなら、男の生きろという言葉に女は耳をかたむけるとでもいうのだろうか。

 同僚の体育教師と呑みに行ってから二週間が経過していた。浮かぬ面持ちで、話すことも連絡することもないホームルームを終え、午前の授業を適当にこなし、昼休みになっていた。
 この日の男の朝の言葉は、『チャンスを待て、それが来たらなんとしてでも逃すな。それを逃したら二度とやって来ないのかもしれないのだから。今はそれを見計らう目を養う時期だ』だった。
 職員室でため息を吐く。気に病んでいるときには面倒事がかさなるものだ。今朝、学校に向かう電車の中、夏祭りで会った青痣の男子生徒と遭遇したのである。「先生」そう声をかけた、となりに座る男子生徒の青痣はもう消えていた。何駅も通過した電車内、となりに生徒が座っていることに気がついていなかった。男は移り変わる車窓の一点を呆けて見つめながら座っていた。

「あと三駅」

 男子生徒はつぶやいた。二人とも正面を向き、一点をながめていた。電車がすすみはじめ、一点は線となった。

「二駅だ」男は正す。

「今日は三駅なんだ」

「どういうことだい」

「今日休むから」

「なんで」

「心変わりってやつさ」

「二駅目で降りるぞ」

「むりだ」

「そりゃいけないな。どんなに心変わりがあっても、こっちは有無をいわせず通わせなきゃならないからな」

 目の前は無数の線の景色だった。電車が停まり無限の点となり、どの一点を見つめていたのか分からなくなった。

「あと二駅。いやな仕事だね。先生はなんで教師になったの」

「一駅だ。当時は権威への憧れがあったのかな。なんだかんだいっても、権威主義を拭い去ることはむつかしくてね、自分の能力をかんがみて、実現可能な権威をえらんだ結果が教師だともいえるかもしれない」

「二駅さ。正直だね、でも先生のそういうところ評価できるかも」

「一駅! それはすなおに喜んでおくよ。だけど、やはり今は生徒たちと一緒にいるのが好きだからつづけているのさ」

「いいよ、そういうの。嘘はきらいだな。そういうおかざりの、他人本位の理由をかかげるのとかいやだな。こっちの荷が重いよ。あ、むしろそういうの狙ってるんでしょ。たちがわるいなあ。利己的な理由じゃなきゃ、いずれ言い訳したくなるしね、やっぱりいやだな。たとえばさ、おれがさ、そんなこと平気な顔して言うもんだから大人を信じられない、って言ったらどうよ」

「べつに信じなくたっていい」

「くそ、どうすれば休んでいいかな」

「一回休んだら癖になるぞ」

「先生はやさしいから、みんなに人気だよ」

「あっそ」

「じゃあ、どんなおれに過去があれば非行の免罪符になる」

「理由なんていらないんじゃないかな」

「理由があって教師になったくせに……嘘はほんとうにきらいだな、おれ……どんな過去があっても免罪符にならない、そこに被害者がいるのなら、って言ってほしいかな」

「なるほど、被害者とは僕ら教師のことか。なんにせよ、きみに非行の心配はなさそうだ」

「どうしてさ!……いえ、すみません。ただ理由なんていらないってのはもっともだな。勝手に自分のことを判断されるのはいやだし。純粋な悪人になりたいからさ、そっちのほうがいいだろ。チャイニィズマフィアが活躍する映画とかさ、胸がすかっとするだろ、あいつらには理由なんてないからさ。あいつらの一人一人に殺す理由みたいのあったら、きっとうんざりするよ。いくら非道であっても、そんな奴らにゆるしを乞われたりしたら、こっちが申し訳なくなっちゃう。復讐の連鎖ってところが、ああいう映画の見どころなんだからさ」男子生徒から煙草の臭いがした。男がそれを感じとったのに気付いたのか、男子生徒は人差し指と中指で吸う真似をして、「親父がヘビーなんだよ」先手をうってきた。

 男は眉をひそめたが、それ以上は口にしなかった。

 彼には父親はいなかったはずだ。



 結局男子生徒は来なかった。いや、来させることができなかった。職員室で男子生徒の家族構成を確認しながら、男はやはり眉をひそめた。父親、一年前に他界。肺癌によるもの。現在は母親と妹と暮らしており、母親はひとりで手芸店を営んでいる。

 男は思考を中断し、購買に向かうため腰をあげると、
「あ、行くんなら、缶珈琲お願いします」男より後輩である新米教師の奴が、ブランドの財布を出した。いいってと男が言うと、「ほんとですか」後輩は財布をしまう。「ぼんぼんはちがいますねえ」

「平々凡々だ」

 後輩は男が買ってきた缶珈琲をそそくさと受けとる。「つまり先輩は、感情論に頼るのがいけないんだ」接吻するように珈琲をすすった。

「女を論理で落とせるもんか」体育の奴が割りこんできた。

「ちょっと黙っててください」
 後輩がそう言うと、体育は回転椅子の上でしゅんとした。

「論理は子供には通じない」男は弁当をつつきながら言った。

「つまり説得には愛ですか。生徒は納得しませんよ、あいつら最近浅知恵がひどいんだ。どっかで仕入れた理屈をつかって、こっちの論理の矛盾をついてくるんだ。だからこっちも言ってやるんだ、能ある鷹は爪を隠すって鷹自身がのたまっちゃあ世話ねえな、って」

「子供はまだ鳶だよ」

「……一体全体どうしちゃったんですか」

 体育が回転椅子の回転をとめると、身をのりだし、男と女との間にあった事の成り行きを後輩に説明しはじめた。体育の奴に相談したのが間違いだったのかもしれない。したり顔で話す体育を遠目でながめながら、男は思った。

「なるほど。そういう始終か。その人、どんな人なんです」

「さあ、よく分からない。でも彼女、被害者意識がつよいんじゃないかな、あんのじょうだけれど」

「……どうせ、儚げな雰囲気が好みなんでしょう。夢見がちな男のヒロイン像だ」

「たんに科がいやなだけだよ。それがなければ、だいたい好意的にとらえられる」

「まあ、それにしても先輩もやりますね」肘で突っついてくる。

 男は後輩の手首をつかみとり、「何言ってるの、話聞いてたの。ぼくは恨まれてるんだから。ヒーローじゃなくてヒールなんだよ」

「ヒーローってのは、往々にして何処かではヒールなんだぜ。格差の理論とおんなじだ」体育が容喙してきた。

 後輩は男がつかんだ手をもう片方の手で丁寧に剥ぎとってから、「ガツンと言ってやるべきですよ。なんでいちいち悩んでるんですか、何もわるいことしていないじゃないですか。それができないんなら無視すりゃあいい。それとも、その女に惚れてでもいるんですか」と熱弁してくる。

 わずかでも女に惹かれていないといえば嘘になるのかもしれない。女は魅力的に見える。あの哀愁は一朝一夕で身に付けられる魅力ではなかった。しかし、そういった私情とはべつに、たしかにもう一度会っておくのもわるくない。見当違いの恨みを買われるのなんて御免だ。それにしてもまったく、女は面白い宿題を出してくれたものだ。

「先輩、来週呑みにつれてってください。相談のります」

「給料日か」体育がぼやいた。

 午後の授業も終え、放課後になる。生徒たちは部活動に向かったり、下校しはじめたり、ある者は構内で駄話に興じはじめる。

 男が教室を出て階段をおりようとするところにうしろから呼びとめられ、ふりむくと、今朝電車内で会った男子生徒と祭りの日に一緒にいた女子生徒がたたずんでいた。さきほどまでおなじ教室にいたのに彼女の息は切れていた。彼女の指は、またも絆創膏という猫をかぶっている。彼女は排球部であったから……いや、弓道部だったろうか……折り畳み式携帯電話のように、ちょこなんとお辞儀をしてきた。第二釦まで開いたシャツから純白の下着がのぞかれる。シャンプーと柔軟剤の香りが漂った。なんだか酔いそうだ。男は気まずさから、目をそらしてしまった。

「これから部活かい」うんとうなずく彼女に続ける。「最近調子はどうだい」

「良好」

「ぼくもなあ、むかしはなあ……」

「そんなはなしどうだっていいんだ。ちゃんと目を合わしてよ」

 上目づかいに男を見たあと、白い歯を見せつけるように、にっと笑った。背の高さのちがいもあって、男が彼女の顔を見れば否応なしに蠱惑がとびこんでくる。シャツの釦を閉めるよう注意したが、彼女は意に介さず首をかしげ、おおきく肺に酸素をためた。

「先生! わたし、今妊娠してるんだ」

 鼓膜が言葉を感受するまえに風がさらってしまったようだ。音がなくなった。それとも言葉を意味に変換できなかったのかもしれない。無機質な言葉だけがころっと路傍におちているようだった。一瞬凍結した時間がすすみはじめ、周辺の騒がしさがよみがえった。あいかわらずの喧騒だ。女子生徒がその言葉を発したまえとなんらかわりない。男の聞きまちがいの可能性もでてきた。

「先生、堕胎したほうがいいよね?」

 親密な相談をされるほどに昵懇であったとか、信頼されていたとも思えない。今日日、妊娠などは珍しいことでもなんでもないのだろうか。どうしてか男のほうが気をつかい、彼女の代わりに辺りを見まわした。誰にも聞かれてはいないみたいだ。声をおとして訊いた。「……相手は誰だい」

「ええと、分かるかなあ」

「夏祭りの日に一緒にいた男子かい」

「ちがうよ、彼とは付き合っているけど。じつは、強姦されて、それで今妊娠してるんだ」

 風が吹いた。誰かがうしろを走って通りすぎた。

「あいつ」そう言って、彼女はその後ろ姿に指をさした。影はちょうど廊下を曲がって見えなかった。身体の中で風が渦をまいて眩暈がした。もう一度、釦を注意した。今度は彼女は反応した。そんなことどうだっていいんだ。

 たしかにそうかもしれない。影はわりあい大きかったのだ。



 女の家は男の家と学校の中間くらいだった。駅から二十分ほど歩いたところにあり、良い意味ではなく閑静な住宅街にあった。つまり廃れた雰囲気があったのである。安普請だろうけれど、アパートではなく四階建てマンションの三階だった。男の住むマンションより骨組はやわそうだ。ちなみに夏祭りが催された川は、もうすこし学校寄りに位置している。

 男はとつぜん今日になって、女の家に行くことに決めた。校門を出たところでまえもって女に電話し、住所を聞きだしてやって来たのだが、訪問の目的はうやむやにしていた。

 部屋の中には麦酒の空き缶がいくつかころがっていた。中央の座卓の上には、一本しか入ってないショートホープと簡易ライター、いかつい硝子製の灰皿、中には吸い柄が五本あった。なるほど、貧乏人ほど酒や煙草への散財をいとわないものだ。戸棚の上には、何処かの病院内で写した家族写真が立てかけてある。病院の待合室らしきところで、夫が息子を抱いて、そのとなりに女が微笑をたたえながらたたずんでいる(何故この写真を選択したのだろうか)。その写真の横に、黄、緑、赤色の三本の剃刀が置いてあった。おそらく三本組の安物の剃刀なのだろう、手首に突きつけても致死にはおよばなそうだ。何故かふいにため息がもれる。

 女は押入れから座布団を重そうに引きずりだして座卓のまえに敷いた。男は遠慮がちに座る。何かが足にあたった。ほっぽり出してあった古新聞にあたったようだ。男が座る様を確認すると、女は口火を切った。「あなたを恨むなんてお門違いよね。ごめんなさい」

 男は女のすなおすぎる態度に拍子抜けした。糾弾されるのも覚悟でやって来たのである。もしかして女のほうが、男から電話がきたときに糾弾を覚悟したのかもしれない。形勢は一気に逆転だ。「このマンションで三人暮らし」足をくずして訊いた。

女も机をはさんで男の斜むかいに座る。正座をくずした座り方だ。

「いいえ、まえに住んでいたところは入院中に引き払われちゃって……私、てっきり死ぬのだと思っていたから、お金の面とか先のこと考えてなかったし……自殺だものね、生命保険なんてきかないし。主人の会社からの打ち切り補償金と退職金とか、あの車を売ったお金でなんとか……」女は吸いたいきもちに自制をかけているかのように煙草の箱を手にしたり置いたりして弄っていた。

「てっきり、か……待ち望んでいた死刑をまのがれた囚人みたいな表現だな……実際はどうだったんだい、あの、その……車を運転したのは……」

「さあ、あまり覚えていないの」

「……いや、今のは忘れてくれ」

「それにしても、あの車が売れるだなんてね。あの車の中で二人も死んだのよ……私はもう二度と乗りたくないわ……」

「ぼくの知り合いに、パチンコ店に行っている間に車内の乳児が死亡してしまったって曰くつきの車を買った奴がいるよ。その車でパチンコに通ったこともあるって言ってたけど、たいして気にならなかったらしいな。交通事故車を譲ってもらった奴もいるし」

 女は黙り込んだ。なんて無神経な発言をしてしまったのだろう。

「煙草吸ってもいいかい」

 男の発言への当て付けなのか、ライターを手渡してきて、「子供いないから簡易式にしちゃった」なぞと無邪気に言ってくる。あまりに挑発的でうとましい。男は煙草に火をつけてから、「……ほかに親類はいないのかい」と訊いた。

「……私のほうはとくに。母は私が幼いときに亡くなって、父も去年に。親類はいるけれど、なんの音沙汰も」

「そう」吸った。

「義母は入院中のはじめに二回ほど訪ねてきたけど、それっきり」

「そう」吐いた。

 女は左右の足をくずしかえた。女は顔をそむけ、壁掛時計にでも視線をうつしかえた。時計の針は歪なかたちをした前衛的なものだった。

「あなたが言ったとおり、後遺症がなかったことに感謝でもしなきゃね……でも記憶障害にでもなっていたら、どんなに楽だったことかって。なんか生かされたって感じが分かるわ。こんな健康体でね。それも前以上に元気みたい、ふしぎなことに、あはは」

 男が見ていることに気付いたのか、女は腰をくねらせ、顔だけを向けた。肩にかかっていた髪が後ろに垂れる。周到な淫靡さだ。肩甲骨をすぎる程度の長さの髪だった。ろくろのようなくびれが際立って、尻を突きだしているようだ。男は身体の内部を無性に掻きたくなった。煙草を灰皿に押しつけ、吸い殻は合計六本となった。

 部屋はせまく、二人の距離はちかい。男は体勢をかえる。手が女の指にふれた。さわらないで。女は似合わない大きな声をあげ、穴倉にひきかえす蛸のように手をひっこめた。部屋がもうすこし広ければ聞きとれないほどのか細い声で男は謝る。どうにか聴こえたようだ。また顔だけを向けてくる。女が左手で右腕の肘をつかむと、小さな胸の膨らみが強調された。やはり痒みは気のせいではない。

「……でも、なんで私だけなのかしら」

 全身の毛が総毛立ち、毛穴がひきしまった気がした。痒みは行き場をうしなった。外に出てくれなきゃ、掻くてだてもない。



 帰宅した男は風呂あがりにベランダに出て、ウイスキィを呑みながら煙草を吹かしていた。身体が冷える。風が冷たい季節になって身体をさますのにはいささか寒すぎる。この習慣もそろそろ模様替えだろう。夏といっしょに女に対する懸念も過ぎ去ってくれればいいのだけれど。

 図体からして夫のほうを引きずり出すことはむつかしかった。最初に女を助けるという選択はまちがっていなかったはずだ。救急医療における命の取捨選択だって今さら誰も非難したりしない。ただ、簡単に引っ張りだせる子供を見落としていたことは気にかかる。座席の下にいた子供には気付けなかった。きっとあの女が子供を抱いていたが、双方とも気をうしない、子供は座席の下にずれ落ちてしまったのだろう。あのときはひどく暗かった。にしても車内を確認するという部分にまで盲目になってしまうとは、まったく教科書ばかり眺めていたせいで、現場での臨機応変な態度なんてあったもんじゃない。

 たとえ夫と子供を助けられなかったとしても、男は胸を張るべきだった。女とその夫、人の命を天秤にかけるつもりも、その余裕もなかったのだ。人助けが個人の利益のためになりさえしても、種の保存のためだといえば大仰であるように、たいした理由はなかったのだ。それに、そんなわずかな時間差が生死に影響しているだなんて考えづらかった。しかし考えづらくとも、考えずにはいられない。わずかな可能性というものは人に希望も絶望も抱かせうる。

 あの女が男に期待していたものは、おそらくあのときの答えだった。帰り際、またあの女は問いかけてきたのである。
「ねえ、なんで死んじゃいけないの」
 そして、また保留にしてしまった。

 なんで人を殺しちゃいけないの。なんで家畜はよくて、人はだめなの。そういった類の質問だった。根源的な倫理に関する問いかけである。誰しも通過する問いでもあり、誰しも嫌忌する問いでもある。子供の哲学の目覚めとでもいおうか、答えを得て説服させることの困難さにくらべ、問いの立てやすさに反感をおぼえる者も多い。一度は考え、頭打ちとなり、一様に放棄するのだが、一考終えたことを解決だと見なし、その問いをやたらと立てる者を軽蔑し辟易する類型だ。しかしむげに否定するのも、一種の成人病みたいできもちがわるい。やはり、人間は二律背反を内包した生き物であると納得させるに尽きる。

 なにより答えられないのを承知で投げかけて、自己正当化させてやろうって腹なら質がわるい。無垢に問う子供か、たんに困惑した顔を見たがる好き物か、だいたいが後者に決まっている。子供ならともかく、大人が前者であれば、まずその根性を疑ったほうがいいかもしれない……いいだろう、そっちが屁理屈を盾にするのなら、こっちだって、てだてがないわけではない。生徒に何かを教えるときには、まず定義付けをする。どんな無理難題であろうと、定義付けをすまして定義さえ押しつけてしまえばこっちのもんだ。

 だが何かが噛み合わなかった。女の言葉には純真さが感じられた。子供のようでもあり、他方では途方に暮れた大人のような、嘆願にちかい響き……諦念と切実を両極に置き、まんなかで針が揺れているような不安定さ……この振れ幅が人の心の中でこれほどまで同居するものだとは……はたして、彼女を説得できるのだろうか?

 ベランダから路地をながめていると、とつじょ法螺貝を吹いたような音が鳴り響いた。いや、象の鳴き声だ。行き場をうしなった、あの痒みのせいだろうか、象の鳴き声にトランペットの音もくわわった気もする。耳鳴りでなさそうだ、やけに賑やかで騒がしい。何本か向こうの通りのほうからだ。家屋にさえぎられ、仔細には見えなくても、向こうの通りから夜空に向かって光がもれている。身をのりだした。何軒もの隙間から光がうかがえることからすると、なんらかの行列のようだ。火の用心と唱えながら練り歩いているわけではない、こんな夜中にトランペットや象の鳴き声、はたまた甲高い歌声はおかしい。となりの部屋はおろか、どの住宅からも人が飛びだしてくる気配はない。そのパレードじみた異変に気付いているのは男一人だけのようである。世界に自分ひとりだけがとり残されたような気がした。男はマンションの最上階からながめてみようと思い、部屋にもどったとたん、ぱたりと音はやんでしまった。


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