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拾った手帳 2015年10月

『湿度』

 六月の宵の湿度を舐めていた。砂糖菓子と、毛むくじゃらと、僕の脳味噌は湿気てしまった。ドライヤのプラグをコンセントにさすと、ぴきっと音がしてそれきり動かない。熱線が切れたのだろうか。まるで命のような儚さだ。冷凍庫から製氷器を取りだし氷を摘まもうとするも、何分にも湿気ているので指に貼りついて剥がれない。指紋が舐めとられてしまったので、デバイスは僕を認識しなくなった。言葉の通じない老人のような気分だった。
 遮光カーテンの隙間から入り込んできたあなたは、そんな僕を見てくすくす笑った。月の明かりが通り抜ける白い皮膚の上を極小の蝸牛が這っている。あなたの顔が斜めにずれたことで、かけていた眼鏡にひびが入っていたことに気づく。
 カーテンを閉じてくれませんか。窓と、それから鍵も。
 用心深いのね。
 鍵を閉め忘れると家中の隙間という隙間を見回らなければならないのです。
 あなたは笑ってばかりなので、僕が窓を閉め、鍵をかけなければならない。カーテンの隙間を閉じると部屋は真っ暗になって、静かな湿度のなかであなたの呼吸音だけが近づいてくる。目が慣れると呼吸は止み、あなたはいなくなっている。仕方なく僕は家中の隙間を見て回る。

*

『今晩』

 午前二時、部屋の床に散らばっている紙をどれか一枚取り紙飛行機を折って、窓を開けて飛ばす。それが日課なのだと彼女は言った。そんなに紙が散らばっているの? チラシとか、ダイレクトメールとか、レシートとか、書き損じた年賀状とか。年賀状って、もう十月だよ、と言うと彼女はばつが悪そうにえへへと笑った。
 飲み会のあと終電を逃した。明日は休みだしたまには歩こう。冷たい空気が酔いざましにちょうどいい。始めはふらふらとしていた足取りも、十分かそこらで大分落ち着いた。
 そういえば彼女はここら辺に住んでるんだっけと思ったとき、見上げた深い夜を薄緑色の紙飛行機が音もなく滑っていった。
 透明な軌跡を目で辿っていくと、マンションの三階の窓辺に人影が見えた。部屋の電気が消えているのでよくわからなかったが、そこにはたぶん、深夜の空気に溶けそうな目をした彼女が立っていた。窓からは目に見えない夜が滝のように流れ出ていたが、やがてゆっくり閉じられ、後には静寂が残された。
 私は紙飛行機の行方を追って次の角を曲がった。それは路地の真ん中に着地してぼんやり光っていた。拾い上げて広げる。丁寧に折られた山谷のせいでじぐざぐに曲がった罫線。横書きの便箋だ。左上に「今晩」と書かれている。私は彼女の今晩を畳んで上着のポケットに仕舞った。
 帰宅する頃には酔いはすっかりさめ、体も冷たくなっていた。脱いだ上着を確かめるとポケットは空で、内側が薄緑色に染まっていた。「今晩」と、彼女の囁く声が聞こえた気がした。

 #文章 #断片 #写真と本文は関係ありません

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