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たびするにほんご 前編

#礼遇 は列車に飛び乗った。

 たまには休みなさいと上司に言われ、勝手に休暇届を提出された。自分が仕事中毒だとは思ってないけれど、周りからはそう見えるらしく、いろいろな人に休めと言われる。四月に異動してきた上司はそれがだいぶ強かった。
 朝、目が覚めて、何も予定がないことに驚いた。会いたい友人は都合が合わない、見たい映画もやってない。どうしよう。
 礼遇はからっぽの頭で、クローゼットの奥から鞄を取り出し、着替えと化粧品を詰めていく。最低限でいい。冷蔵庫のなかに傷むものもない。戸締まり確認。いつもと違うラフな格好、歩きやすいスニーカー。駅に直行して、窓口で次の特急の切符を買った。

 あてのない旅って、一度やってみたかったんだよね。

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#碧空 は、空を飛びたくなかった。

 揺れる。高い。うるさい。寒い。もとより環境の変化に弱いのだ。何よりも、こんな鉄の塊が宙に浮かぶのが信じられなかった。
 碧空とてこれまでの人生で五回ほど空の便を利用している。しかしおそらく何度乗ろうと、飛行機を好きになることはないだろう。
 一度目は何をどうすればいいかわからなかったため、フライトの最初から最後まで苦しみ続けた。二度目に対策を打った、薬を飲んでぐっすり眠ってしまえばいいのだ。それからは少しだけ楽になった。
 しかし今回はそうもいかない。隣に彼女が座っているのだから。

 碧空は飛行機が苦手だ。

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#昧爽 は自転車を漕ぐ。

 愛車は三段変速のママチャリに毛が生えたみたいなの。それでも自分で白と緑にペイントしたお気に入りの相棒だ。パンク修理は数知れず。チューブの交換もした。脚に力を込めても軋むことはない。
 峠が好きなわけじゃない。平坦でまっすぐな道も好きだ。街中だって好きだ。相棒がそこにいさえすればどこだって楽しい。
 そこに道があるから走る。
 そこに坂があるから上る。
 単純だ。

 昧爽はペダルに足をかけた。

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#炎節 は夜行バスに乗る。

 有給消化で四連休。もう毎年恒例なのでみんなにバレてるし、上司からのお咎めもない。バイトだし。
 前夜。仕事を定時で終了後、友だちと待ち合わせてご飯を食べて、ロッカーに預けてあった荷物を取り夜行バスに乗る。眠る。ウォークマンは持ってるけど毎年ほとんど使わない。行きは断食で、帰りは満腹だから。
 音楽は食べ物で、前三日は決して聞かないことにしてる。炎節はこれを断食と呼んでいる。するかしないかで聞こえる音がぜんぜん違う。曲はそれまでヘビロテしてるから覚えてるし、そもそも歌うために行くんじゃない。
 浴びるために行くんだ。

 炎節は音のない夜を滑っていく。

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#幸先 は、はっきり言ってよくない。

 便器の前にうずくまっている。便器は右に傾ぎ、左に傾ぎを繰り返している。その度に幸先は吐き気を催したが、胃のなかにはもう吐くものがなかった。
 どこかで、きっと大丈夫だろうとたかをくくっていた。いつぞや上司の釣りに同行した際のような小舟ではないのだし、酔い止めも飲んでいるし。
 甘かった。甘すぎた。コンビニで売っているダブルクリームメロンパンより甘い。食せば必ず胃がもたれる凶悪なパンのことを思い出し、また吐き気に襲われる。

 幸先は、非常によろしくない。

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#生ひ優る は尻尾をぴんと立てた。

 虫の音の響く夜だった。目を覚まして、二、三度まばたきをしたあと、くあ、と大きなあくびをした。
 珍しく目が冴えていた。
 小屋から出て見上げると、そこには数多の星々がきらめいている。昼間と違って夜はだいぶん涼しくなった。前足を伸ばして芝生に触れると、肉球がしっとりと夜露に濡れた。
 生ひ優るはすっくと立ち上がった。生垣に近づいて、そのままもぞもぞと隙間を潜り抜ける。
 そこには、金属の道がある。

 生ひ優るは道をたどって歩き始めた。

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#寸景 は、掌で隠した片目をつむる。

 小学校のころ、図書室で見つけた本を思い出す。ミステリーで、主人公の女の子はちょっと変わった特技を持っている。それを読んだとき、寸景は叫び出しそうなくらいびっくりした。自分の秘密とそっくりだったから。
 女の子の特技はこうだ。カシャッと言って瞬きすると、そのとき目にした光景を写真に撮ったみたいに鮮明に思い出すことができる。
 寸景の場合は少しだけ違った。左目だけで被写体を見る必要がある。ウインクなんてきれいにできない。左目もつられて中途半端に細められ、にらんでるみたいな渋い顔になる。そこから左目を閉じれば、何も言わなくても写真が撮れる。
 だから、決定的瞬間に出逢ったら、今みたいに右手で右目を覆って。

 寸景は、夏空を切る飛行機雲を記憶する。

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#奇偉 は動かない。

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」。
 風に手手をそよがせ、幾本もの足にて水を吸い上げる。
 月日とは。
 陽光に指先をかざし、岩の隙間に爪先を潜らせる。
 芽吹き、生い繁り、花開き、萎み、枯れ落ち、土へと還る、その繰り返し。
 雨粒が枝を伝い、稲光が幹を震わせる。
 旅とは。
 樹液に群がる虫たちの弾けるような命を眺め、皮膚を覆う苔たちの囁きに耳傾ける。

 奇偉は旅をする。

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#差添い は重い瞼を上げる。

 乳のような白く粘っこい霧に包まれていた。水音。足もとに板の継ぎ目が見え、桟橋の上に立っていると知れる。橋の先は霧に消えているのか、そこで途切れているのか判然としない。
 橋下の水はゆったりと、右手から左手に向かって流れている。ここは川、と差添いは思う。
 一歩踏み出そうとすると、足はまるで根が張っているかのように重い。からだも自分のものでないみたいだ。ふらりと体勢を崩し、あ、倒れると思うと先程までと同じように直立している。
 ここはどこかしら。

 差添いは重いからだを動かそうとする。

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#涼飇 には友達がいない。

 給食の食パン二枚は多すぎる。トーストしないパンはパサパサして好きじゃないし、一度牛乳で流しこんだらおなかでふくれたみたいで気持ち悪くなってしまった。だから食パンは一枚しか食べないことにしている。もう一枚は、持って帰って公園のゴミ箱に捨てる。何回かハトや池の鳥たちにあげたこともあるけど、ある日知らないおじさんに怒られた。えづけ禁止だって。えづけじゃなくて、協力してもらっただけなんだけど、そんなこと説明できるはずなかった。それから公園へは行っていない。
 やせっぽちの白い犬に会った。学校から帰る途中に通りすぎる青い屋根の家。庭にそいつはいた。草がぼうぼうに生えていて、生け垣もとげとげ枝を突き出している。庭に面した大きな窓の向こう、水色のカーテンは閉じられていて、電気もついていないみたいだった。これは後で知ったことだけれど、住んでいたおじいさんとおばあさんは亡くなってしまったらしい。誰もいない家の庭に、犬だけが残されていた。
 犬は涼飇に気がつくとしっぽを振った。毛はぼさぼさで、首輪につながったひももぼろぼろだった。
 犬は期待に満ちた瞳で涼飇を見つめる。ランドセルのなかに食パンがあることを知っているんだと思った。それがウィンウィンってやつだ、と記憶のなかの父さんが笑った。
 食パンを差し出すと、犬はがつがつと食いついた。

 涼飇は犬と契約を結んだ。

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#恋草 は初めて飛行機に乗る。

 慣れないキャリーケースをころころ転がし、特急で都心から離れた空港へ。広い空港内を練り歩く。重量オーバーしてないかドキドキしながらケースを預けて、手荷物検査の前に一口しか飲んでないペットボトルのお茶を捨てて(どうしても飲みたかった)、搭乗口近くのベンチに腰を下ろしたらもう疲れてしまった。昨日なかなか眠れなくて寝不足っていうのもある。
 あっちは涼しいのかなとか話しながらクロワッサンみたいな枕をふくらます。隣で相づちを打つ彼はなんだか顔色がよくなくて、大丈夫って聞いたら彼も昨夜眠れなかったらしい。何回も海外に行っていても、初めての場所はやっぱり緊張するんだろう。
 タラップを歩いて乗りこんで、ちょっと狭い座席に座って、シートベルトを締めて。

 恋草は離陸する。

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後編に続きます)

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