ハードディスクに埋もれていた原稿:フリッツ・ライバーに関するエッセイ

【前書き】
 ライバーがらみで自分のパソコンを検索してみたら、こんなエッセイが出てきた。およそ四半世紀前にSFマガジンに書いたもののようだ。書いていたことすら忘れていたぞ。どうやら1999年2月号の「年代別SF特集1  豊饒の1950年代SF」に掲載された模様(現物は未確認。自宅の腐海をさがす気にならない)。ここで紹介している未訳の中篇の内容なんて、まったく記憶にない(笑)。同号に掲載された近況付き。
 ま、大晦日の暇つぶしになれば幸い。

五十年代のライバー

 フリッツ・ライバーは、一九一〇年一二月二四日クリスマスイヴに生まれ、九二年九月五日に亡くなった。享年八十一の大往生である。
 本誌特集のテーマである五十年代には、ライバーは働き盛りの四十代、商業誌デビュー作の〈ファファード&グレイ・マウザー〉物「森の中の宝石」(1939年)以降、生前著した二百数十篇の中短篇のうち、五十篇あまりがこの時期に書かれている(三十年代に書かれた中篇The Dealings of Daniel Kesserichが発見され、去年刊行されたのには驚いた)。
 一九四十年代の初期ライバーの作風は、私淑していたH・P・ラヴクラフトに感化されたホラー色の強いものであったが、発表の媒体をウエイアド・テールズ誌やアンノウン誌から、おりから台頭してきたF&SF誌とギャラクシー誌といったSF雑誌に移してからは、純然たるSFになっている。去年の五百号記念再録で好評を博した「バケツ一杯の空気」(SFM98年1月号)、猫SFの定番「跳躍者の時空」(『魔法の猫』扶桑社ミステリー)、いまや性倒錯SFの古典となった「性的魅力」(『ギャラクシー〈上〉』創元SF文庫)、究極のバカSF「おわり」(SFM89年7月号)、至高の(笑)バカSF「マリアーナ」(『SFベスト・オブ・ザ・ベスト〈下〉』創元SF文庫——発表は六十年二月だけどね)あたりが"いまでも読めないことはない"邦訳された五十年代ライバー短篇のベスト・クラス。ほかにもラファティの諸作を思わせるほら話【トールテール】「ラン・チチ・チチ・タン」や戦争(戦場)SFの佳作「火星のフォックス・フォール」やSFファンならだれでもにやりとさせられるファンのツボをついた「時間戦士」など五十年代の代表作をおさめた短篇集『バケツ一杯の空気』(サンリオSF文庫)が絶版なのはじつに残念。六二年の作品だが、筆者がもっとも愛するライバー作品、史上最強のチェスSF「六十四コマの気違い屋敷」もこの短篇集におさめられているだけに、ぜひどこかで出し直してもらいたいものだ。
 今回、五十年代のライバーの諸作を読み返してみて、(核)戦争をテーマにしたり、作品の背景になったりしている作品が多いことに改めて気づいたのだが(「バケツ一杯の空気」「緑の月」「火星のフォックスホール」「セールスマンの厄日」等)、SFの黄金期と巷間称される五十年代がじつは東西冷戦のまっただなかにあって、いつ熱い戦争に変わるかもしれないという緊張感が現実のものであった、そのリアリティがSF作家の想像力や使命感を刺激した結果としての豊穣かもしれない、と「戦争を知らない団塊世代」のさらにあとに生まれ(でも、五十年代生まれ)、ついに不惑(別名初老)を迎えたおっさんは妄想をたくましくするのであった。
 最後に未訳のライバー五十年代の佳品A Deskful of Girls(1958)「机一杯の女の子」を紹介しておこう——主人公のおれは、しがない私立探偵をなりわいとしている。映画スターのイヴリンの元夫から依頼を受け、彼女を脅迫しているという精神科医スライカーにナイトクラブで会う。傲岸不遜な精神科医曰く、「わしの診察室には机一杯の女の子がおる。どうだ、見にこんか」おおぜいの女性を想像し、すけべ心も手伝って、出向いたおれが見たものは、文字通り⋯⋯。後年、自伝のなかで、作者自身が「じつにフェミニストな話」と衒いまじりで語っているこの幽霊譚(精神科医は、患者から抑圧のもとであるエクトプラズムを抜いて治療し、抜かれたエクトプラズムは、幽霊娘【ゴーストガール】となって、保管されている)、男性原理の支配する社会に対する風刺となって、読み応えたっぷりの中篇であり、数多い未訳のライバー作品のなかでも邦訳されてほしい一品。

近況
 古沢嘉通(ふるさわよしみち)。58年生まれ。初老の翻訳家。WOWOWにも入って、サッカー漬けの日々。中田のバイスクル・キック・ゴールには痺れた。いいものを見させてもらいました、なんまいだぶ、なんまいだぶ。

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