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自らを縛らないこと

お久しぶりです。fleurです。多忙な日々を送っていますが、息抜きにと思い久しぶりにnoteを開きました。

突然ですが最近、自分で自分を縛らないだけでこんなにも生きやすく、何気ない日々がイキイキとするのかと思わせられる出来事がありました。

 
自分で自分を縛らず生きること。そうありたいと願う人は多いと思いますが、簡単なことではないように思います。知らず知らずのうちに、”自分像”をカチコチに固めてしまっている人がほとんどだと思うのです。

それが顕著に現れている気がするのは、今流行りの”MBTI診断”や”HSP診断”です。あれらが流行っていることに、軽く危機感を覚えます。(かくいう私も、あまりにも流行っているので診断してしまったのですが)

たとえば私のMBTIの診断結果はINFPですが、”INFP 性格”などの検索をかけると大量のページがヒットします。数多くある性格描写の中のひとつでも自分に当てはまっていたら、全部自分のことを言われているような気がしてしまうのです。そうなると、INFPについての検索がやめられなくなり、画面を追い続けてしまい、それだけで自分のことをよく知った気になります。そして、知らずしらずのうちに”INFPとしての自分”が確立されていってしまったのです。MBTI診断を受けるまでは、別になんとも思っていなかったのにも関わらず、”INFPは生きにくい”と聞いてからというもの、気づけば私は生きにくいと感じるようになっていました。(いや、実際には感じていたのではなく、生きにくいはずのINFPという像に自分を当てはめていただけだと思います。)

というように、MBTI診断といった診断系のテストは、自分で自分をカテゴライズし、自らを苦しめてしまうことにつながります。私はその危うさに気づいてからというもの、INFPについて調べることを控えています。このテストが人気になる理由は、何となく分かる気はするのです。人々が自由な選択をして生きられるようになった一方、受験や就活などあらゆる場面で、”あなたは何者か”を聞かれるようになったことが関係していそうです。何者か、と言われても大抵の人は残念ながら何者でもなく、飛び抜けた個性は持ち合わせていない。それなのに個性を求められ続けることはどうしようもなく辛いですし、(高校生の私も既に辛い)そんな世の中で”あなたは〇〇だ”と自分について教えてくれるテストがあったら、飛びついてしまうのも無理はありません。安心できるから。

”陽キャ” ”陰キャ”もカテゴライズの一種ですよね。"私陰キャだから"はよく聞きますが、それは自分の性格をなにかの言い訳にするための悲しい言葉で、聞く度になぜか私が傷ついています。(意味不明ですが)

別に、自分をカテゴライズすること自体は駄目なことではないと思います。その方が生きやすいのならば、自分自身をカテゴライズしても構わない。だけど、大抵の人は自分のあるべき姿を決めないほうが生きやすいんじゃないかなと思ってこのnoteを書き始めました。

私も、何者かになりたくてたまらなかった時期がありました。だけど、何者でもない自分を受け入れて、自分の枠を壊して感情のままに生きるようになってから(自己中心であることとは少し違う)、以前よりも”個性的だね”と言われる機会が増えました。不思議なことに。自分の限界・範囲を定めないことで、本当に心からやりたいことをやれるので私らしさがどんどん内側から溢れ出てくるのだと思います。

無意識のうちに、自分の枠を定めてしまっていませんか?
””私らしくない” ”そんなキャラじゃない”からといってやりたいことから逃げていませんか?

何者でもなくていいんです。

あなたがあなたらしく、自然体でいられること。それが何より大切だし、最も"あなたらしさ"を表現できる生き方だと思います。

どうか、自分で自分の首を絞めないで。

私も、さっぱりとした新しい気持ちで新学期に望みます。
新しいことにも挑戦するつもりです。

周りがどう思うかとか、キャラとか、そんなの気にしなくていいよ。

どうか素敵に皆さんが生きられますように。


*なんだか終始上から目線かもしれない、ごめんなさい。

fleur.


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