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推し/押す/スワイプ ー「推し、燃ゆ」

 小説とは様々な群像を想起させる描写から別の接点を見出す所に面白さがある。著者、宇佐見りんの『推し、燃ゆ』は主人公、あかりが「推している」アイドルとその周りを描写によって構成されている。そこで、「推し」とは何か気になってくる。それはアイドルの中で特に人に「すすめたくなる」意味もあるが、著者は「推し」を「押す」と捉え、主人公と推しの同一化を測ったとも考えさせられる。そして、文章には度々「背骨」が登場する。

 序盤、バイトのお金で友人と遊びに行く行為を「肉付け」と主人公は解釈する。それらとは異なる余計なものが削ぎ落とされた状態を「背骨だけになる」と描写しており、この「背骨」は主人公自身の身体の一部かと思わせる。ただし、そうではなく「推し」がその背骨でもある。この「背骨」と「推し」との関係を著者が接写する。

 昨今、スマホを「スワイプ」する行為によって様々な人とものとの関係を結ぶ事ができるようになったが、本書の中で「推し」との出会いはスマホを「スワイプ」、ではなく携帯電話を「押す」。この「推し/押す」と「背骨」という身体の一部を著者は重ねている。それは、スマホという機器が他者の声を吸い取ってしまうという意味もある。

 携帯電話は、1979年にサービスを開始した機能である。そこから小型化が進み、99年にインターネットにも接続できる様になった。本書においては、「家族のグループライン」という表記からスマホの空気を感じられる。そこには、アプリのリゾームを行き来する感覚を著者が接写する事で与えられるイメージがある。この接写のイメージについて、改めて考えてみる。特に母親がハンドルを切るシーンは印象に残る。

母がハンドルを切る。ワイパーの範囲から外れた雨が窓を垂れていき、タッターッ、と規則的な音とともにぬぐわれた窓ガラスがまた曇る。並んだ木は輪郭を失い、鮮やかすぎる緑色だけが目に残る。

宇佐見りん『推し、燃ゆ』河出書房新社

 この「鮮やかすぎる緑色だけが目に残る」という接写からも著者が風景に入り込んでいる様子を感じ取る。となると携帯はもはや、実際はスマホであり、著者が携帯の感覚を取り戻すというペーソスとしての「おされた」感覚。そこに希薄化された推し。他者が潜んでいる。

〈参考文献〉
上讃龍也、清水茂芸評、津村省逸、清水将「大学生における携帯電話の使用状況と依存傾向について」『岩手大学教育学部研究年報第72巻』所収


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