人類史の転換期に、崩壊させられる性愛の再建を進めるために。
性被害問題があっちコッチで起き、痛々しく心が苛まれます。
男の私など男は、未熟な青年期に性欲が発現する体験を経てきた者には、当時の「不純な悩み」「汚れちまった悲しみ」が蘇り、複雑な思いになります。
しかし確かに重要な問題なので、次代の人間解放を信じて思惟的探求活動を真摯に、冷静に続けるべきだと思っています。
そのことと関連して「性被害問題」という名前と内容の共通理解を社会にどう作るかという現代の問題があるように思います。
そのうち最も本質的本源的な問題として、性被害を起こし起こされる「人間というものをどうとらえるべきか」、という「汝自身を知れ」という古代に提起された本源(根本)問題に返答を出さなくてはならない時代が、一巡したということになります。
今までは「汝自身を知れ」といわれても各自が自身で探求すればいい命題でしたが、こうあからさまな問題として人類に提示されるようになれば、はっきりと決着をつけなければならなくなったわけでしょう。
(人類史的課題とその解を得る段階。次代への転換期にある人類としてその解を「早急に」出さなければならないのは確だと、私は考えている。また哲学する者と芸術家の責任課題があると思います。)
その「人間なる者」の答えを獲得したと仮定として、そのうえで男というもの―その乳幼児から老人までの問題と、性被害問題に該当する事件を起こす年齢から死ぬまで―をどうとらえるべきかの解答が得られるのでしょう。
分かりやすい例では、男といっても動物のように性衝動が起きたら女性を強姦する勢いの男から、性衝動が自然的には起こらない男までいますので、そのどれを男とするべきか、あるは典型とするべきか、あるいはそれを断定せずに性欲が強い者から無いものまで、男性器を持っていれば、また内面の精神的意識下で性差がない者を男とするべきなのか?その解もでるでしょう。
さらに「女と云うもの」についても同様に「人間である」という基準器がないと、それは限定範囲なく千差万別であるという一言になるし、人間と男女の姿は時代と社会と制度が規定するのだから、時間的流れと切り離して、なおかつ物的で生態的な可塑性がない硬質体として固定的にとらえるのは、非弁証法的であり誤りであるということにもなるでしょう。
そのようなテーマの解答以外に、「性被害」は親族間で起こるケースと、それも妻が性関係を拒否するという「性被害」もあるし、夫が拒否するとかの「性被害」もある。性欲があるのが人間的命の発現でありそれを認めるのが普遍権利であり、それを踏みにじるものは重要な「性被害」問題なのです。
「性被害」といえば一般的には、学校とかで教師が加害者で被害者が児童(男女)という場合の「性被害」問題があるうだろうし、青年期と成人になってからの強姦だとか、病院や老人施設で老人の強姦もあるし、留置場刑務所などでもあるため、個々のケース別の問題も解答を出さなければならないし、それらに共通する問題を抽象する命題の解を得なくてはならないだろう。
そのうち問題構造を原理的に客観的要因と主観的要因の二つを示して、個別問題を解明しなと、被害者や読者の感情的満足感で解答を得たかのような錯覚と誤解が生じて、正しい解明と解を得ることにならないはずだ。
さらにそれらを合わせ、人類史的問題として解を得るには、人類史の世界的な風俗史の変遷を確認して、野蛮から文明化へと移行し、資本主義的な利潤追求のためなら何でもありという性の商品化問題も資本主義固有の問題もある。資本主義生産技術とマスコミの(騙し)情報加工と報道の問題が深く関係する衛生目的以外の性的下着やエロかわコスプレ衣装、性具の産業的拡大と利用、それらの性条件と環境の反乱と貧困、あるいは貧困を原因とした性の商品化、出会いサイトやチャットなど、売春、頽廃化(とするべきか?)の問題もその解とが求められ、その解決の過程を示さなければならない。
こうした資本主義が拡大拡張した性問題と性文化の膨張を、性愛文化(性の行為と性交の快楽の享受)として豊かにしていく形式として、されにその解決までの過程を示さなくてはならないだろう。
禁忌意識やタブー意識、封建的倫理観や道徳観の縛りの克服か再生か、自然のままに放置すればいいのではなく、そのような対応は結局は新時代が幕開けしても資本主義の延長として資本主義的な疎外を押し進め男女の相克を仕掛けるものとなるだろう。人間的性愛の文化として快楽の享受を豊かにする、その道を創造的に明らかにしないと、物的に保障された人類はそれまで物欲と性欲と金銭欲に駆られて全力で活動した、その目の前の人参の虚像を失い、気力なく無為に呆けてしまうだろう。
男女の愛と性愛を基礎として発展してきた、愛*の文化的芸術的な価値を享受する精神文化と生物学的本能的にある肉体的文化を合わせて、性愛の形式と様式が人間的な次元へと発展するのだろうし、またそのように発展させざるを得ないだろう。(SMの形式も含めてある発展だがこのじだいでも存命に係わるものを全体的理論問題として容認するモノではないだろうが、個別的な男女が個人的に享受する問題としては「存命に係わるもの」の実存を認めることになる)
(愛*この愛は家族的愛であり、友情なども含め、さらに民族的《民族主義的》国家的《愛国主義的》国際連帯的人類史的な広い意味の普遍的愛のこと)
ここには芸術評価の基準の課題と深く関係する性質をもつため、哲学者や芸術家の専門家が果たすべき専門的責任と歴史的自覚が問われている問題だと思う。ほかに語るべき責任ある者はいないはずだ。
当問題は人類史的な問題*のため個人認識では及ばないのは当然であり、またこの文章はあるブログのコメントとしその場でアドリブ的に書き始めたものであり、日ごろから問題と課題意識としはあったので、それを記すことになった。芸術論美学問題と深く関係する問題であるため、普通常識と高度の知性ある人々は触れない命題だが、個人だからこそ「無知の知」を示さざるをえないこととなった。まさに今こその哲学的命題であり課題となっているからこそ記すことにした。いつものように私の頭脳が疲れ整文添削は後日することにする。これを偶然読まれる方には、感覚的におおよその話として「感じ」る程度にしていただけるとありがたい。
*人類史的な問題*青年期と後に何回か読んだ「サルが人間になるための労働の役割」「家族、私有財産及び国家の起源」「感情移入説」「風俗の歴史」などを思い出しつつそれら反さないようにしたつもりなので、上のような短文でそれを語ることではないが、ただ主観的な思い付きで主観勝手を話しているのではないことを記す。それらを読まれた経験がある方には、私が自分が言ってるように図々しく書くな厚顔無恥と叱られるだろう。