自分探し問題の1、これをすると自己閉塞させ、引き籠もりになる哲学的原理。

自分探し問題の1、これをすると自己閉塞させ、引き籠もりになる哲学的原理。

この表題の問題で度々質問や相談ごとを受けますので、この命題の雑感というか、その感想文になります。
解決のカギも一応示して置くつもりです。

このような問題に嵌まり込んた人々は、自分の頭脳の中にある自分と社会を峻別する意識を、先ずは疑って見てください。

貴方や私達は学校教育に騙されています。

社会は、自己と諸々の自己が集まって社会となり社会があるのだと、何処で自身の頭にインプットしたのでしょう?

現実は、昔の人ほど正しく見ていたようで、社会が合ってその中に自己=自分=個人=おのれ等々が、生まれてきたのでしょう。
その主従関係を取り違えているのです。
社会が主で、個人が従の関係であって、個人か主で、社会が從の関係ではなないのです。

つまり社会がないと個人は生きてられないけど、貴方やほかの誰か個人が居なくても、社会は成り立って行けるのです。

わかりやすくいえば自分とは別な命としての父母がいたから、自分が生まれて来れたのですし。
思考力についても日本語圏という観念世界があって、そこに暮らす父母の音声を誰もが刷り込まれてマンマ、おかあさん、おとうさん、などと日本語固有の音声を出せるようになるのでしょう。
またその言葉は社会(日本語圏)が意味内容を決めているので、誰もがその通り(日本語体系の秩序や法理に従って)に思考するから、思考力となるのでしょう。

日本語でなくて、英語やドイツ語を選んでから生まれて来れればよかったのに??
などと思ったとしたら、それは自己偏重、自己至上主義、絶対的自己存在主義、主観主義などの状態だと言えるでしょう。

社会や他者の優位と先見性がある事実をみられずに、個人と主観の優位と先見性があるとみると、そのような有り得ない空想を信じることになってもおかしくはありません。

同じあり得ない事でもせめて、自他を同じ地平に並べて統一的に捉えないと、視線と思考の正常化はできないでしょう。

唯一正しいのは、社会優越主義、絶対的社会至上主義の方で、そこに先見性があり、その客観的事実をみることができるでしょう。
(カントは自分の意識と知性の中に、まだ見ていないのにおおよそを予見する先見性があることに疑問を持ち、自分の理性を導く不思議な力について考察しましたが、自我と他我の主従関係を取り違えて「考察」していたのですから、真実には到達しようがありません。
しかし偉大なる真実探求者ですから、その他の様々な視点や検証基準で多面的に考察を重ねて、純粋な理性とは何かを解き明かして行きました。)

私達もこの世界事実に立脚した視点と思考にしていかないと、正しい思考活動、思想活動、概念活動、哲学活動にならないでしょう。
間違った思考はやがて、あるいは必ず、狂いを生むことになります。

私達を主観的にさせ見間違わせ考え違いをさせる根本的原因は、肉体的原因因子とそれを取り巻く社会環境の関連性と言葉の問題因子が結び付いてあります。
肉体的原因因子は、目が前にあるので前を見ていれば同時に後も上も下も見られない性質にあります。
五感すべてがそのような限界を持っている事にあります。
いまここに居れば同時に他の時空環境には行けないなどという原因もあり、多様な認識障害因子を持っています。

社会環境の関連性と言葉の問題因子については概略次のようあるでしょう。
その人間の認識障害と結びついてあった神話や宗教や文芸作品などとその世代的歴史としてある言葉を中心にした六感情報文化そのものも、人間を誤らせる刷り込みの道具となっていたでしょう。
それらが結びつき拡張し合った虚構世界としてありました。

それらは現代でもありますが、今の私達や青年たちを閉塞し、自閉的にさせて、自滅的にさせているのは、そうして近代教育制度が施かれた国々では、国際支配者によって仕掛けられた心理学主義があり、その教育「心理学」主義という個人の、しかも心理しか見ない、心理学教育論が中心的にあり、世界中の人間に刷り込まれていることにあるでしよう。

それが確かに、日本社会でも心理学がおお流行りなのです。

心理学でも精神科学でもその社会と個人と、さらに精神と心理の関係を意図的に無視したり、倒錯させたりして、しかも精神や心理を語る上では社会現象や自然現象との関係を語らざるを得ないから、
それらからの影響は表面的に取り上げながら、その社会に有る本質的本源的問題は語らず、個人の精神と心理の問題かのように説明しているのです。
それは宗教も同じ原理を史的に一貫して応用してあます。

現代の教育学の書籍を読んだ方は、それらの著作のどれを取って読んでもその共通の論理学原理手法を読みとれるでしょう。

それらが世界的に広げられたのはおそらく、18世紀後半からヘーゲル「精神哲学」「精神現象学」を学びそれを悪用した哲学者が、国際支配者の立場から精神医学、精神科学、心理学を捏造したのではないでしょか。

先ずは「ヘーゲルは古い」という理由付で、ヘーゲル哲学を捨てさせる学術界世論誘導が起こされ、新カント主義が流行らされました。

それも数十年後には「カントは古い」と誘導され、ヘーゲルが見直され「新ヘーゲル主義」が流行らされ、そのときにはすでに元のヘーゲル哲学とヘーゲルは跡形もなくされてしまい、哲学史からの〜ヘーゲルの排除が完成したのです。

その後ヘーゲルの弟子のマルクスがヘーゲルの偉業を引き継ぎ、その欠陥であったヘーゲル個人の頭脳にある観念世界、精神世界での哲学論構築だったものを、唯物論として構築し直して経済学的論証をもとに客観的に存在(措定として)させたのです。
つまり世界最高のヘーゲル観念論哲学をもう一段階上げて哲学テーマの世界を、哲学的に説明したのです。

そのようにマルクスはヘーゲル同様に世界を説明しつくすことに成功したので、国際支配層はマルクスを今でも哲学史から外させているのです。

なのではっきりいいますか、古代から始まる長い哲学史はその観念論と唯物論の学術闘争と、弁証法とそれを否定する形而上学的連関性否定主義との哲学闘争が続いて来たのですが、マルクスによって決着がつけられ形而上学観念論は哲学の座から立ち去らされ、哲学の名を語れないものとなったのです。

国際支配者はそれを知りマルクスを葬り去るよう様々してきましたが、ヘーゲル同様に人類には真理が必要だし必ず追い求めるから、真理を語ったキリストのように必ず蘇ります。

大学も出版物も観念論者教授と、その読み物、出版物ばかりとなり、他の学者たちも社会も自分のテリトリーに引き篭もり、自己の追求課題に向かって精神を病むほど苦悩することになっているでしょう。

特に現代触れるべきは、量子コンピーター開発には、人間精神を全面的に解明し論証したベーケル精神哲学は欠かせないはずですが、その完成まで数多の失敗の苦悩を経験しながら必ずその存在に気付くでしょう。

完成したと思ったら重大事故を起こして、その欠陥を探し、解決策を見出そうとして必ずヘーゲルと出会うでしょう。
今ほどヘーゲルが必要なときはなかったでしょう。

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