「貧困は自己責任か否か」という不毛な議論に、終止符を。
先日、貧困支援の現場に身を置くと相談者には「頑張りすぎて」しまう人が多いということを痛感するという旨のツイートをした。
貧困と努力に関わる議論においては、きまって「頑張れるのに貧困なんておかしい」といった意見をよく目にする印象があったが、引用リツイートなどの内容を見ると今回は割と共感を示してくださる人が多かったのに驚いた。
他方で、全く「頑張らない(ように見える)人」がいないのかというと勿論そんなことはない。
現場で多くの困窮者と出会えば出会うほど、本当に色々な人がいることが分かるし、「貧困状態にある人は◯◯である」といった一枚岩な評価などできないことにすぐに気付く。
貧困は個人の努力不足なのか否か、といった議論が尽きないのは、まさに貧困当事者一人ひとりが有する「顔」が様々であることの証左といってもよいかもしれない。
しかし、この「貧困は個人の努力不足か否か」という議論は、実りあるものにはなり得ない。
なぜなら、「貧困は個人の努力不足か否か」という議論は社会保障を不要と考える立場、社会保障を拡充すべきと考える立場のどちらに対しても説得力のある論拠を提供しえないからだ。
「貧困の責任」は立証ができない
なぜ「貧困は個人の努力不足か否か」という議論からは何も得ることができないのか。
その理由の一つは、「個人の努力不足的による貧困」や「個人の努力不足ではない貧困」といったものを同定しようとすること自体が、そもそも不可能だからである。
例えば貧困状態にあるAさんとそうでないBさんがいたと仮定する。この時、「Aさんが貧困状態にあるのはAさんの努力がBさんよりも足りなかったからだ」という「Aさん自己責任論」は、貧困が社会問題として取り上げられる際かなりの頻度で目にする。
しかし、上の「Aさん自己責任論」は、AさんとBさんにはそれぞれ生まれながら全く同じ条件が与えられているという前提がなければ説得力を持たない。なぜならたまたま貧困家庭に生まれたAさんは義務教育以外何の教育も受けなかったのに対し、たまたま恵まれた家庭に生まれたBさんは小さい頃から英才教育を受けていた場合、AさんがBさんと同じ能力や社会的地位を獲得するためには、AさんがBさんよりも多くの努力しなければならないのは明らかだからである。
しかし現実の社会は個人の才能といった先天的なものから、家庭環境といった社会的なものを含め、一人ひとりがおかれた状況、与えられた条件というのは全く異なる。こうした様々な条件を統一しなければ、現在貧困状態にある人が本人の努力不足で貧困に陥っているとの説明は説得力を欠く。
一方、Aさんの貧困は努力不足ではないと証明するためには、Aさんと同じような家庭や条件を与えられた人がみんな貧困に陥ってしまうことを証明しなければならない。しかし、これも不可能な試みだ。なぜなら、やはり全く同じ条件のもとに成長するという二者は現実的には存在しないからだ。
実際、貧困であれそうでない状態であれ、個人がおかれた現在の状況というのは社会構造と個人の主体的な行為の相互作用の蓄積であると理解するのが妥当なところだろう。
「努力不足か否か」が分かっても、うまみがない
「貧困は個人の努力不足か否か」という議論が建設的なものにならない二つ目の理由は、仮に貧困が個人の努力不足か否かが分かったとしても、それが貧困当事者の生活を社会が保障すべきかどうかの根拠にはならないという点にある。
本来、「貧困が個人の努力不足か否か」というのと「貧困当事者の生活を社会が保障するべきか否か」というのは全く別の水準の議論である。
筆者には不思議でならないのだが、「貧困は個人の努力不足だ」として社会保障を不要とする立場と「貧困は個人の努力不足ではない」として社会的な保障の充実を訴える立場は、なぜか同じ前提を暗黙の裡に共有している。
その前提とは、「貧困が個人の努力不足なら社会保障は不要で、努力の末の結果なら社会保障が必要である」というものだ。
しかし、これは私達の社会がとりうる選択肢のなかの一つにすぎない。実際には、「貧困が個人の努力の末の結果でも社会保障は不要」という立場があってもよいはずだし、逆に「貧困が個人の努力不足による場合でも社会保障が必要」という前提だっておけるはずだ。
貧困を問題提起したい人の多くは貧困の自己責任的な側面を否定する主張を行ないがちだが、こうした主張はむしろ貧困にある人々の首をしめることになりかねない。
なぜなら、「貧困は個人の努力不足ではない」と強調すればするほど(貧困にある人に落ち度はなかったのかといった)自己責任の度合を問う社会的な視座」を尖鋭化させてしまうからだ。
結局のところ、「貧困は個人の努力不足だから社会保障は不要だ」と主張する立場と、「努力しても貧困なのだから社会保障が必要だ」と主張する立場に大差はない。どちらも「努力」を社会保障を利用する条件においている点で同じ穴の狢である。
「無条件の保障」としての貧困論
では、貧困を問題提起する際、重要なことは何か?
それは「最低生活を営む権利」が個人の意欲や努力に応じて保障されるという条件を外すことである。
貧困の自己責任的な側面を認めた上で、「本人に落ち度があるとしても、最低生活は無差別平等に保障すべきである」、と開き直ればよいのだ。
そして、これはそれほど突飛な考え方ではない。
私たちの社会が基本的人権として認めているもののほとんどは、本人の資質や性格や生活態度がどのようなものであれ無差別平等に保障されるものである。
例えば、義務教育を受ける権利はいかなる理由でも剥奪されることはない。
「○○さんは授業中寝てばかりいるので明日から登校を認めない」などと教師が言おうものなら大問題になるだろう。
同様に生存権は基本的人権なのだから、理念的には「労働意欲や生活態度に関わらず、所得状況などの要件を満たす(=客観的な指標で生活に困窮していると判断される)場合は無差別平等に最低生活を保障する」こととされるわけである。
よく、「義務の伴わない権利はない」という人がいるが、その際の義務の内容や強制力というのは権利の種類によって大きく異なる。レストランで食事をとる権利はお金を払うという強力な義務(条件)とトレードオフな関係にあるが、基本的人権はそのような強い強制力を伴う義務が条件として課されることはない。これは、基本的人権は人が善く生きるうえで極めて重要で必要不可欠な要素であると理解されているためだ。
条件つきでない権利というものをあまり考えたことがないという人にはあまり腑に落ちない話かもしれないが、ちょっと思考をめぐらせてみれば意外とそういった権利は少なくないことに気付くかもしれない。
繰り返しになるが、貧困を問題提起し社会保障の充実を目指す際、「貧困は自己責任ではない」と主張する必要など全くない。「自己責任だろうが社会の責任だろうが最低生活の保障はしっかりやりましょう」という立場をとって、基本的人権の性質について訴えていった方が間違いなく建設的な議論になる。
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