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「生活保護は現物支給に!」は何が問題なのか?

先日、生活保護について、「選択する自由は基本的人権なのだから、生活保護は現物支給であってはならない」という趣旨のことをTwitterでつぶやいたところそこそこ反響があった。

賛同のコメントや引用RTをいただいた一方で、「生活保護費をギャンブルに使う人もいる!そういうことを防ぐためにも現物支給のほうが良い」という意見もちらほら頂いた。

実は、この「生活保護費を正しく使わない人もいるから現物支給を!」という声は、生活保護に社会的な関心が集まる度に繰り返されてきたものだ。

例えば、いわゆる現物支給とは異なるものの、2014年には大阪市で生活保護費の一部をプリペイドカードで支給するというモデル事業が検討されている。

この時もメディアやネットなどで「プリペイドカードなら使途も明らかになるしギャンブルなどに使うことへの抑止にもなる」「いっそのこと現物支給にすべきだ」といった意見を多く目にした覚えがある。

このように度々話題になる生活保護の現物支給。

しかし、筆者は生活保護の現物支給には断固として反対の立場をとる。今回はその理由について考えを整理してみたい。

生活保護における「金銭給付」

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まず、生活保護における現状の給付方法について、その根拠法をもとに確認しておきたい。

この点については、生活保護法第31条において次のように規定されている。

第三十一条 生活扶助は、金銭給付によつて行うものとする。但し、これによることができないとき、これによることが適当でないとき、その他保護の目的を達するために必要があるときは、現物給付によつて行うことができる。

まず特筆すべきは、生活保護の生活扶助は「金銭給付」が基本とされているという点である。

そのうえで、金銭給付が困難である時や保護の目的を達するために必要である時に現物支給が行えるとある。

ちなみに、生活保護は「生活扶助」「住宅扶助」「医療扶助」など8つの扶助で構成されているが、このうち「医療扶助」と「介護扶助」(一部)については現物支給となっている。

これは、医療については必要となる頻度や金額の個人差が大きく、事前に現金で給付するかたちを取ると差額が生じやすく手続き的に煩雑なうえ、緊急を要する際に所持金が足りない場合、適切かつスムーズな医療の提供が行えないリスクが生じるためだ。

また、基本的に医療サービスは(他の市場での商品と異なり)医療行為の内容を供給側が専門的な知見から決定したほうが安全性が高いという社会的合意がある。無論、医療を受けるか否かや選択肢が複数ある場合などの意思決定を患者が行えることは重要だ。この、患者の自己決定権がきちんと守られることには最大限留意する必要があるが、適切な医療を迅速に提供することに主眼を置いた際、医療扶助については現物支給にすることのメリットが大きいと考えられている。

他方、すでに確認したとおり、日々の生活費に位置付けられる「生活扶助」に関しては金銭給付によって行われることとされている。以下ではその意義と現物支給の問題点について述べたい。

「必要即応の原則」とは?

現在、生活保護における生活扶助費は金銭給付となっているが、その意味について考えるための前提として、生活保護の原則の一つである「必要即応」について確認しておきたい。

生活保護法では、その第9条において、以下のように定められている。

(必要即応の原則)
第九条 保護は、要保護者の年齢別、性別、健康状態等その個人又は世帯の実際の必要の相違を考慮して、有効且つ適切に行うものとする。

言うまでもないことだが、人が生活に困窮する理由はそれぞれ異なる。同様に、一人ひとりが生活において必要となる社会的資源も、個人がおかれた社会的文脈や個人差によって変わり得るものだ。

例えば、身心になんらかの障害のある人が最低限の生活を営むためには、健常者とは異なる追加的な資源を必要とすることがある。

また、より踏み込んだ話をすれば、食品アレルギーの有無や宗教的な理由などによって、一人ひとりが食べることのできる食材も変わり得る。

上記の「必要即応の原則」は、こうした個々人の様々な違いによって「実際の必要の相違」は異なるという理解から、文字通り「原則」として規定されているのである。

現物支給は“コスト”がかかる

それでは、この「実際の必要の相違を考慮」することを念頭に置いた場合、生活保護を現物支給によって行おうとした場合、どのようなことが起こるだろうか。

繰り返しになるが、人によって必要な食品は異なりうる。これは、食費はもちろん、その他の項目においてもそれぞれに必要となる金額は個人によって異なりうるということを意味する。

生活扶助費の額自体は同じであっても、そこから食費にいくら必要で、その他の固定費や交際費にいくらかかるか等は個人の置かれた状況によって変わる。アレルギーのために有機野菜しか食べられない人は多少交際費を削ってでも食費に多くをかけるかもしれないし、中間的就労にある若者は日々の食費を減らして職場の交際費にあてるかもしれない。

現物支給を本気で行うためには、こうした一人ひとりの個人差を把握したうえで、それぞれに必要な項目と金額を本人以外が算定する必要が生じるということである。

現物支給論者は多くの場合、こうした個人差を議論の射程においていない。例えば食費については必要な栄養を摂取できる食品を予め計算して提供すればうまくいくと考えがちだが、ここで暗に想定されているのは「健康で何でも食べることのできる個人」である。この初期設定がそもそも間違っているのだ。

筆者は以前、困窮家庭に企業などから寄付された食品を届ける活動をしている「フードバンクかわさき」の高橋さんにお話を伺ったことがあるが、その際、次のような言葉が印象的だった。

「食品をただ届ければいいというわけではない。アレルギーのあるご家族がいるか、調理可能な状況にあるか。そういった点を聞き取りながらお送りするものを決めます」

こうした丁寧な聞き取りを行なうことではじめて、個人が口にすることのできる食品を把握することができるということだ。個人が何らかの事情で食べられない物を送ってしまった場合、それはその個人にとって「食品」ではない。

現在、生活保護担当者一人が担う保護世帯は100を超えることも珍しくないという。ただでさえ人手不足が指摘され、一人ひとりの支援に時間が割けない構造となっている福祉事務所に、果たして上記のような「丁寧な聞き取り」ができるだろうか。

こうした、福祉事務所にかかる「業務上の労力」に加え、現物支給を行う場合、当然ながら金銭的なコストも追加的にかかってしまう。

例えば、既に紹介した保護費のプリペイドカードへの代替案について想像してほしい。従来の保護費の直接支給とは異なる手法を導入する場合、こうしたシステムを導入するための費用が新たに生じることになる。国の制度として導入する以上、特定の企業の既存サービスをそのまま運用に用いるということは公平性の観点からも大きな問題がある。

保護費を現状の金銭給付から現物支給に変えるということは、それがどのような方法によって行われるにせよ、業務上の労力や金銭的なコストが今以上に生じることは避けられないだろう。

言うまでもなくこうしたコストは現状の金銭給付であればかからないものだ。個々人がそれぞれに必要なものを市場から購入するというのが最も効率的で、かつ社会的に「安上り」であることに疑いの余地はない。

個人で必要なものを購入してもらうという現状から現物給付に変えるということは、例えるなら既に券売機が導入されている飲食店が、券売機を撤廃して注文をとるスタッフを新たに雇うのと同じくらい馬鹿げている。

「買っていいもの」を誰がどうやって決めるのか

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そもそも、現物支給を支持する人の多くが口にする「保護費をギャンブルに使うのは間違っている」という意見についても、突き詰めて考えるとこうした“感情”をもとに制度設計することの困難さに気づく。

以前、別のエントリで書いたことともかぶるが、「保護費をギャンブルに使うことはけしからん!」といった判断は、何を基準に行えばよいのか。

例えば保護費でギャンブルはダメだという人であっても、保護費で月に一度友人と会食することは問題ないと考えるかもしれない。

それでは、こうした「月に一度の友人との会食はOKでギャンブルはダメ」という評価は、何を根拠に、誰が行えばよいのだろうか。

無論、生活保護は「最低限度の文化的な生活」を保障するにとどまるものであって、「贅沢な生活」を保障するものではない。ゆえに、保護の要件や最低生活費を上回ると判断されるものを購入したり所持することはできない。仮に生活保護を利用されている方が高級車を譲り受けた場合、これは資産として申告する必要が生じる。

しかし、たとえギャンブルであっても「最低生活費」の範囲内で行われる以上、これを「最低生活を上回る贅沢」と客観的に判断するためには「最低生活費」という現在の公的な基準とは別の判断基準を設けなければならないことになる。

それでは、「贅沢か否か」という客観的な判断を市場価格以外に妥当性のあるやり方で構想することなどできるだろうか。

「ギャンブルを行える時点で最低生活費を超えている」といった「保護基準」そのものを問う議論であればまだ分かるが(筆者はこの立場とは対局に位置する)、「ギャンブルはけしからんので現物支給を!」というのでは、理性的な議論にはなりえない。

”人間の条件”としての「選択の自由」

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ここまで、現物支給を導入することについて、「コスト」や「判断基準」という技術的な困難さという視点から検討してきた。

しかし、仮にこうした「課題」が解消可能であったとしても、現物支給に舵を切るべきではない最も重要な理由がある。

それは、そもそも個人が「自分にとって何が必要かを考え、自由に選択する」ということ自体が、侵されてはならない基本的人権だということだ。

正直、(ここまでの議論についてきてくれた読者には申し訳ないが)現物支給にかかるコストがどうの制度設計の難しさがどうのといった話はどうでもいい。

生活保護が保障を目指す「人間らしい生活」とは、他者から一方的に与えられたものを消費する生活などではない。

そのような生活を強いられるというのは、端的に言って奴隷状態に置かれることと同義である。

アメリカの哲学者であるマーサ・C・ヌスバウムは、「普遍的に保障されるべき自由」の一つとして「良き生活の構想を形作り、人生計画について批判的に熟考できること」(「実践理性」)をあげている。また、その意義について強調した著作において、インドの貧困地域で暮らす女性労働者の言葉を紹介している。

私たちはただパイの一切れが欲しいのではなく、その味も選びたいし、その作り方も知りたい。   (イラ・バット)

私たち一人ひとりが、自分の人生や生活をどうかたちづくりたいかを考え、自ら決めるということ。

現物支給では、こうした「人間が人間らしく思考し振る舞うための前提条件」を根本から奪ってしまうことになるのだ。

つまらないルサンチマンや感情論に振り回されてはいけない。「金銭給付か現物支給か」というのは、私たちが「人間」をどう定義するかに関わる極めて重大な論点なのである。







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永井悠大
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